中川淳一郎氏   | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

>現代ビジネス   >日本人の「ダサさ」に影響を与えたのは「学校」だったアメリカの教育との決定的な違い  >中川淳一郎の意見   >・7時間   

>国際的な存在感を失い安く買い叩かれる日本。   

>アメリカ、タイ、ラオス、唐津で暮らした中川淳一郎氏が怒りと共にダサさ脱却を考える『日本をダサくした「空気」 怒りと希望の日本人論』(徳間書店)から一部抜粋して紹介する。   

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>得意と苦手を自分で判断させるアメリカ   

>一方、アメリカの教育はまったく異なった。   

>4年制の高校に入ると、得意不得意に応じて明確なクラス分けがされる。   

>数学の場合は、学年の異なる生徒が同じ教室にいるのが普通だった。   

>ザッと分けると私の高校では数学の授業についてはBasic Algebra(代数の基礎)、Pre Algebra(代数の初級編)、Algebra(代数)、Geometry(幾何学)、Algebra 2(代数2)、Pre Calculus(微積分の基礎)、Pre Calculus Accelerated(微積分の基礎上級編)、Calculus(微積分)となっていた。   

> 受講する授業は各人の判断と将来なりたいもの、そして頭の良さに従っている。   

>この数学については、数学が不得意な者は4年間数学の授業を取り、なんとかGeometryまでいって終わりになれる。   

>数学が得意な者は1年次にAlgebraを取り、2年次にGeometryとAlgebra 2、3年でPre Calculus Accelerated、そして最終年にCalculusを取る。    

>だが、Calculusにまでいける生徒は300人いる1学年の生徒の内、20名程度だった。   

>さすがにこの科目は4年生しか受けられない。    

>まさに数学エリート達が受ける授業だったが、他の生徒は「オレは数学は苦手だが、体育は得意だ」と自信を持っていた。   

>秘書になることを決めている生徒(ほぼ全員女性)は、こうした数学の授業は最低限取得し、簿記・タイプライティング・ワープロなどの授業を取っていた。   

>こちらの方がよっぽど多様性を尊重しているし、その分野で極めて優秀な者が同じようなレベルの者同士で切磋琢磨でき、能力を高められるのだ。   

>もちろん、日本でも高校以降は偏差値に応じ学校のレベルが変わっていくが、市に数校しかないようなアメリカの小都市(ただし面積はバカでかい)では、居住地域に応じた公立高校へ行くしかなくなる。   

>するとその中で各人の得意分野を自分で判断し、自分の道を自分で切り拓くしかなくなるのだ。   

>不得意な者を得意な者が待つような教育はここにはない。   

>さらに、この公立の高校教育で、「オレが得意なものはあるが、オレができないものもある」は明確に培つちかわれる。   

>デブの数学オタクはスポーツが得意な人間とは接しない。   

>逆も然しかり。   

>だから、アメリカは、一芸に秀でた人材を次々と輩出し、世界の覇権を握ったのであろう。   

 

そうでしょうね。   

 

>日本の人材は基本的には都会であれば、人気の大企業を志望し、地方であれば地元のより名の通った企業や公共機関・役所やインフラ企業で働くのが黄金コース。   

>そこに乗れた人々は「いいところにお勤めで……。お父様、お母様も鼻が高いでしょう」と言われるものだ。   

>或いは、地元の人から「お前がオレらの中の出世頭!」なんて言われる。   

>とは言っても地方であれば、将来的に家業を継ぐための準備ができるところへいくこともあり、これは実に地に足が付いた生き方である。   

>決して「周囲を見て自分もコースを決める」ではないので、立派だと思う。   

>変人を認め、レールを外れても後ろ指をさされない社会   

>アメリカ時代、よくつるんでいたのは数学・物理好きで優秀なnerd(うすのろ、ダサいヤツ、陰キャ)達だ。   

>当然私もnerdだった。   

>彼らと一緒に数学や物理等の学校代表として州大会にも出たことがある。   

>彼らは一人を除き、全員大学へ行ったが、その後の進路が面白い。   

>物理の大学教授、整形外科医、引きこもり、ペットフード工場社員である。   

>一人だけ大学に行かなかったジェフは、大学に行くための奨学金を得るため、海軍に入る。   

>するとそこで優秀だと認められ、結局海軍に残り、幹部になってしまったという。   

>そして、イリノイ州では優秀とされるイリノイ大学に行ったスティーブは、実家に戻ったと言っていた。   

>彼は一切勉強しないが、毎度数学のテストの点は良かった。   

>テストが開始すると、「E=mc2」とだけテスト用紙に書き、問題を見る。   

>当然公式は分からないのだが、アインシュタインの相対性理論を理解しているため、そこを起点に自ら公式を作り出し、問題を解いていくのである。   

>しかし、致命的な欠点があった。それは「e」と「i」のスペルを間違えるのだ。たとえば、「ウナギ」を表す「eel」は「iil」となってしまう。   

>「空気」である「atmosphere」は「atmosphire」で、こちらは一つのeは正確だが、一つは間違えてしまう。

>江戸っ子が「ひ」を「し」と発音してしまうのと同じと考えていいのかよく分からないが、とにかくスティーブに関しては「なぜお前はあんなに頭がいいのに、そんな簡単なことはできないのだ!」といつも思っていた。   

>そんな彼が実家の地下室で取り組んでいたというのが、ビールの醸造である。   

>その地下室には何度も行ったことがあるが、相当広い。   

>確かにここなら醸造所にできそうだ、と思うものだった。   

>会ったのは32歳の時だったが、「毎週シカゴに樽を持って行くんだよ。   

>そしてカネをもらう。   

>翌週もビールを売りに行ってまたカネをもらう。   

>これの繰り返しだ」と語っていた。   

>スティーブ・ジョブズとジェフ・ベゾスもそうだが、とかくアメリカの偉人は「自宅ガレージで制作を開始した(創業した)……」的なエピソードが多い。   

>私の友人のスティーブの場合は「地下室で醸造を開始した」のだが、残念ながら今検索しても彼のビールはメガブランドにはなっていなかった。   

>というか、アメリカ人はあまりにも同じ名前が多過ぎて検索できないのである。   

>同じように数学・物理好きであっても、こうしてその先の道は多様な国の方が変人は認められるし、レールを外れても後ろ指をさされない社会である。   

>何しろ「かくあるべし」が、よっぽど保守的な家に育った人間以外は、特に決められていないのである。   

>日本は社会全体で「かくあるべし」を規定し、そこから外れた者は徹底的に糾弾の対象になる。   

>だから周囲の目を気にし、怒られないことを仕事の最大のモチベーションにしてしまうのだ。   

 

そうですね。

 

>「失われた30年」になるのも当然の話なのである。   

 

日本人は思考を停止している。 だから、日本人には現実 (事実) があって非現実 (考え・哲学) がない。それで、日本文化には形式 (儀式) があって内容 (教義) がない。

だから、我々はその分余計に形式に拘る事になる。  

内容が無いのであるから拘る形式もつまらぬことになる。   

いいがかり(a false charge) とは、つまらぬことを口実にして無理をいう事である。まっとうな事が存在しなければ、つまらぬ事もつまらぬ事では終わらない。だから、無理はいじめになる。    

日本人はこの言いがかりに日常的に苛まれている。他人の目恐怖症により精神的に疲れている。   

たとえば、学校では校則があって「教育」「学校らしさ」「生徒らしさ」という形式に関する ‘いいがかり’をつけられて、学生にまっとうなルールが働かなくなる。上級生も自ら進んで「態度が悪い」「その身は何だ」と下級生の指導をしたがっている。マウント () の姿勢をとるのですね。普通の学生は対処のしようも無く自殺者も出る。宝塚歌劇団でもいじめは起こる。   

こういったことは、本質に関する言論の自由を封じられた学校以外の集団でも起こる。たとえば、宗教教団であるオウム真理教教団(1995年に地下鉄サリン事件を起こした)では、教祖が気にくわない人物を殺すように命令していたが、それは被害者の「魂を高いところに引き上げる慈悲の行い(ポア)」という意味になった。また教祖が周囲の女性を性的にもてあそぶ性欲の発散は、ありがたい「修行(ヨーガ)」の援助だった。これも言論の自由を封じると理不尽ないいがかりをつけられる例である。  

また、連合赤軍(暴力革命をめざして強盗や殺人をくりかえし、1972年にあさま山荘で人質をとって銃撃戦を行った)のような革命集団でも、グループ内で目をつけられた人たちが、銭湯に行った、指輪をしていた、女性らしいしぐさをしていたといったことで、「革命戦士らしく」ない、「ブルジョワ的」などといいがかりをつけられた。そして彼らは、人間の「共産主義化」「総括」を援助するという名目でリンチを加えられ、次々と殺害された。 これも言論の自由を封じると理不尽がはびこる例である。    

 

()「マウント」とは、人類を含めた哺乳類が、相手の上に向かい合った状態で馬乗りになる、乗りかかる行為を指す。

登る、乗る、またがるを意味する“mount”が由来。

マウントを取る行為は、自分の優位性をアピールすることを意味する。

その延長で、容姿や仕事、お金や恋愛について話す様々な場面で、互いに“格付け”し合い、相手よりも上に立とうとする言動や行為の全般を表す。 

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