山口周氏   | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

>プレジデントオンライン   >欧米のエリートなら必ず習っている日本人リーダーが知っておくべき「人を動かす」ために必要な3要素   >山口周によるストーリー   >・8時間   

>人を動かすにはどうすればいいのか。   

>コンサルタントの山口周さんは「アリストテレスは『ロゴス・エトス・パトス』の3要素が必要だと説いた。   

>この『弁論術』は、欧米社会の知識階層においては、当然の教養の一つになっている。   

>リーダーという立場に立つ人であれば知っておいて損はない」という――。   

>※本稿は、山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。   

>アリストテレス(紀元前384~紀元前322)   

>古代ギリシアの哲学者。   

>プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。   

>イスラム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。   

>論理だけでは人は動かない   

>人の行動を本当の意味で変えさせようと思うのであれば、「説得よりは納得、納得よりは共感」が求められます。   

 

共感はなーなー主義によるものですか。   

 

>論理思考に優れたコンサルタントが往々にして事業会社に移ってから苦戦するのは、論理によって人が動くと誤解しているからです。   

>では人が真に納得して動くためには何が必要なのか?    

>アリストテレスは著書『弁論術』において、本当の意味で人を説得して行動を変えさせるためには「ロゴス」「エトス」「パトス」の三つが必要だと説いています。   

>「ロゴス」とはロジックのことです。   

>論理だけで人を説得することは難しいと指摘はしたものの、一方で論理的にムチャクチャだと思われる企てに人の賛同を得ることは難しいでしょう。   

>主張が理にかなっているというのは、人を説得する上で重要な要件であり、であるからこそアリストテレスも『弁論術』において、かなりのスペースを使って「ロゴス」について説明しています。   

>しかし、ではそれだけで人が動くかというと、そうはいきません。   

>つまり「論理」は必要条件であって十分条件ではない、ということです。   

 

そうですね。   

 

>これはディベートを思い出してみればわかりやすい。   

>ディベートでは相手を打ち負かせばそれでよいわけですが、実社会で同じことをやれば、打ち負かされた相手は怨恨(えんこん)を内側に抱えることになり、結局のところ面従腹背するだけで全力以上の実力を発揮することはありません。   

>論理だけでは人は動かないのです。   

>さらに「道徳的に正しく」「情熱がある」必要がある   

>ということでアリストテレスが次に挙げているのが「エトス」です。   

>「エトス」とは、エシックス=倫理のことです。   

>いくら理にかなっていても道徳的に正しいと思える営みでなければ人のエネルギーを引き出すことはできません。   

>人は、道徳的に正しいと思えること、社会的に価値があると思えるものに自らの才能と時間を投入したいと考えるものであり、であればこそ、その点を訴えて人の心を動かすことが有効であるとアリストテレスは説いているわけです。   

>そして三つ目の「パトス」とはパッション=情熱のことです。   

>本人が思い入れをもって熱っぽく語ることで初めて人は共感します。   

>手を胸に当てて想像してみて欲しいのですが、もしシラけきった表情の坂本龍馬が、さもつまらなそうに維新の重要性を訴えていたとしたら、あれだけの運動を起こすことができたでしょうか?   

>あるいは、いかにも「ヤル気ゼロ」といった表情のキング牧師が、カッタルそうに差別撤廃の夢を訴えていたとしたら、あなたはどう思うでしょうか?    

>……まったくピンときませんよね。   

>彼らが「パトス」、つまり情熱をもって未来を語ったからこそ、世界はいまあるように変わりました。   

>ソクラテスは「弁論術に溺れるのは危険」と説いた      

>さてここまで、アリストテレスの「ロゴス・エトス・パトス」について説明してきたわけですが、このような考え方、つまり「言葉によって人を動かす」という、「そもそもの考え方」に強く反対していたのが、アリストテレスの師匠筋に当たるソクラテスでした。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

 

>アリストテレスの主張するような「弁論術」というスキルに溺れることの危険性がよくわかるのでここに紹介しておきたいと思います。   

>リーダーシップにおける「言葉」の重要性に、おそらく歴史上最初に注目したのはアリストテレスの師匠筋に当たる哲学者、プラトンでした。   

>プラトンは著書『パイドロス』の中で、リーダーシップにおける「言葉の影響」について、徹底的な考察を展開しています。   

>題名の「パイドロス」というのは、ソクラテスの弟子の名前ですね。   

>プラトンは、この著書『パイドロス』の中で、彼の師匠であるソクラテスと、その弟子であるパイドロスの架空の議論という形で、リーダーに求められる「言葉の力」とは、どのようなものだろうか、という議論を展開しています。   

>レトリックは人心を誤らせる「まやかし」   

>この議論の中で、アリストテレスが重要視したレトリック=弁論に対置されているのは、ダイアローグ=対話です。   

>非常に興味深いことに、『パイドロス』では、リーダーにはレトリックが必要だと主張するパイドロスに対して、ソクラテスがこれを批判し、真実に至る道はダイアローグ=対話しかない、と説得する構成になっています。   

>なぜ、ソクラテスがそういうことを言うのかというと、レトリックというのは「まやかし」だというんですね。   

>言葉巧みに弁舌を振るって、人を動かしてしまうような技術というのは、人心を誤らせる、ということです。   

>これが、アリストテレスの「弁論術」に対する強烈なカウンターになっていることがわかりますね。  

>確かに、ヒトラーの魔術的な演説の力を知っている現代の私たちにとって、このソクラテスの指摘は説得力があります。   

>だからこそ、ソクラテスは「リーダーこそ、レトリックに頼ってはいけない、そんなものに真実に至る道はないんだ」と諭すわけですが、一方のパイドロスは、言葉巧みに弁舌を振るう哲学者や政治家に「カッコエエなあ」と憧れていることもあり、「やっぱりレトリックは大事じゃないか」と反論する、そういう議論がずっと続いていくという構成になっています。   

>レトリックの危険性を知ったうえで正しく使えるか    

>この議論は結局、パイドロスが押し切られるようにして終わるのですが、私たちにとって重要なのは、プラトン自身もまた、レトリックが持つ「人を酔わせる、動かす力」については、これを素直に認めているという点です。   

>言うまでもなく、組織のリーダーであればフォロワーを「酔わせ、舞い上がらせる」ことが求められる局面もあるでしょう。   

>そのようなとき、レトリックの危険性を知った上でこれを用いることができるかどうか。   

>是非の問題はともかくとして、レトリックにはそのような危険性もまたあるのだということは知っておいた方がいいでしょう。   

>アリストテレスという人は、いろんな意味でプラトンという師匠に対してケンカを売った人ですが、師匠筋が「危険だ」と指摘したレトリックを、全3巻にもなる方法論として、師匠以上に洗練させたというのは、オビ=ワンとアナキンの関係を見るようで切ないものがあります。   

>危険性を含めて「弁論術」は知っておくべき   

>スピーチを学校で習う機会が少ない日本では、アリストテレスの「弁論術」を学ぶ機会はほとんどありませんが、スピーチが重要な社会的役割を果たしている欧米社会の知識階層においては、当然の教養の一つになっています。   

>盲目的な欧米礼賛をするつもりはありませんが、人を動かすためには「ロゴス」「エトス」「パトス」の三つが必要だというアリストテレスの指摘については、その過剰な使用がもたらす危険性も含めて、リーダーという立場に立つ人であれば知っておいて損はないと思います。   

 

そうですね。   

 

>---------- 山口 周(やまぐち・しゅう) 独立研究者・著述家/パブリックスピーカー 1970年、東京都生まれ。   

>慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修了。   

>電通、ボストン・コンサルティング・グループ等を経て現在は独立研究者・著述家・パブリックスピーカーとして活動。      

>神奈川県葉山町在住。   

>著書に『ニュータイプの時代』など多数。   

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マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )        

 

 

 

 

 

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