菊と刀 | nogaのブログ

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我々日本人の意識改革を目指しています。

 

>『菊と刀』の日本人観

>佐藤:ルース・ベネディクトの『菊と刀』を、かなり批判されていますね。>「西洋人は原理重視で個人主義的、確固たる自己を持っており自律性が高い。日本人は状況重視で集団主義的、協調を重んじるので自律性がない」という有名な主張は間違っていると。

 

そうですか。

 

>施:今回の拙著のテーマは、「日本文化における自律性」です。>特に、前半では、そうした陳腐な日本観を批判しています。

>日本の構造改革論の根底には、「日本人は自律性・主体性に欠け、集団主義的・同調主義的で、時として軍国主義にも陥りやすい、劣った文化と倫理観の持ち主である」という自己批判的な認識があると指摘しました。>戦後の日本では、特に、進歩的文化人と呼ばれる人たちの間で顕著でしたが、「こうした日本的な集団主義的文化を、よりアメリカ的な自律的で個人主義的な文化に変えなくてはならない」という主張がなされてきました。>このような見方は、左派だけでなく、構造改革を推進してきた一部の右派も共有しています。

 

そうすると、挙国一致の見解ということになりますね。

 

>最近、日本大学のアメリカンフットボール部の反則指示問題がトップニュースになりましたが、そこでもやはり「日本の組織は集団主義・同調主義的で、みなボスの言うことに従うだけ」という論評が見られます。

 

付和雷同の傾向ですね。

 

>中野:「日本」大学だけに(笑)。

 

外国の大学での話は、わが国ではあまり話題になりませんね。

 

>施:ははは。こうした見方の源流の1つをベネディクトの『菊と刀』とみて、その是非を検討したわけです。

 

わが国における 菊と刀の影響力は強いですね。

 

>私自身はベネディクトの見方は一面的であり、日本にも、欧米とは異なる形のものだが、日本型の自律性、主体性が備わっているという考えです。

 

日本特有の自律性・主体性ですか。

 

>佐藤:ベネディクトによれば、欧米は「罪の文化」で、日本は「恥の文化」とのことですが、十分に内面化された恥の意識を、罪の意識と区別するのは不可能です。

 

欧米人には、意思がある。意思があれば、加害者意識を持つ。加害者意識が強いと、罪の意識にもなる。贖罪の宗教も必要になる。

日本人には、意思がない。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから、日本人には意思がない。

意思がなければ、加害者意識もない。これは、アニマルも同じである。あるのは、被害者意識ばかりである。大人でありながら、罪の意識を持たない人を見るのは実に恨めしい。恨めしやー

 

日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。上とみるか・下とみるかの判断が的確でなくては、正しい日本語を話すことも難しい。

日本人の礼儀作法は序列作法になっていて、世俗の序列判断が正しくなければ礼儀正しい日本人にはなれない。だから、序列意識はいやがうえにも旺盛になる。

下とみられたものは、敗者の礼をとる。これが屈辱でなくて何であろうか。だから、屈辱を受けた日本人は恥ずかしい。恥ずかしいから頑張る。

 

罪の意識と恥の意識は、言語に意思のあるなしによって分けられるのでしょう。文法に、時制のあるなしによって分けられるようです。

 

>日本人にも自律性・主体性がないはずはない。>具体的な表れ方に違いがあるだけでしょう。

 

日本人は、言語による自律性・主体性の表現に乏しいようですね。

 

>施:欧米型の、人をそれぞれが独立した存在とみなし、自己主張とぶつかり合いを前提とする「相互独立的自己観」「原理重視の道徳観」に対し、日本では多様な、さまざまな他者の観点を内面化し、その多様な他者の観点から自分の行いを自己批判的に反省し、他者とよりよき関係を保とうとする「相互協調的自己観」「状況重視の道徳観」が文化の基本となっている。

 

自己主張を抑えて、あくまでも様子を見ているのでしょうね。

 

>日本人は他者の視点から自分の行動を反省することを通じて他者の多様な観点を内面化し、反省を繰り返す。

 

人のふり見て、我がふり直せと言うことになりますか。

 

>日本型の「自律性」とは、このように、多様な他者の観点を内面化し、内面化したさまざまな角度から厳しい自己批判を行い、つねに、幅広い視野の下、真に状況にかなった行為を絶えず追い求めていこうとする姿勢のことだと考えています。

 

多様な他者が存在し、独自の自己が不在ですね。お前らに、俺の腹の底が読めてたまるかということになりますか。

 

>成長するにしたがって、身近な特定の他者の観点のみでは満足できなくなり、より広い世間の観点を意識し始める。

 

あるべき姿は非現実の内容ですから、日本人の脳裏には定着しませんね。ですから、日本人には自己がない。

 

>ひいては、いわば「お天道様」の観点、つまり状況のすべてを把握している理想的な観察者の評価に沿う行為をとろうと絶えず努めるようになる。

 

全てを肯定することは、何も肯定していないことになるのでしょうかね。自己の基準による判断が下せない。つかみどころのない人間となるでしょう。

 

>周囲の評価はどうあれ、「お天道様」に恥じない行為を目指すのです。

 

相手との対話を重視する姿勢はとらないのですね。

 

>日本文化には、こういう「自律性」に至る道がきちんと内在していると見ることができるというのが、拙著の主張です。

 

対話は大切ですね。そうでなければ、独りよがりの想いに耽ることになりかねませんね。

 

 

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