プロレスラーの木村花さんが自殺した。ネット上での誹謗中傷を苦にしての自殺らしい。
「誹謗中傷なんかして何が楽しいのか」と思う方もいるだろう。

だが、誹謗中傷している時の人間の心理は、「楽しい」の一言で片づけられるものじゃない。「楽しい」を超える「楽しい」という感情におぼれている。

これからする話は、俺自身の体験談と想像を基にしている。

この世で最も人間が憧れる長所は何だろうか?
それは、「賢い」ということだ。

「人間は考える葦である」という言葉がある。この言葉をそのまま受け取れば、「考える」という行為は、人間の本質、あるべき姿だ。

それ故に、「頭がいい」ということは自身の人間的価値の根本にかかわることだ。

それは、ほとんどの人間が言われたい誉め言葉だ。

それは、勉学に励む優等生や知識人のように、頭をよくすることに熱心な人間だけでなく、スポーツ選手のように身体能力を重視する人間はもちろん、「勉強なんて何の役に立つんだ」と不良を気取り、学ぶことの意味を否定するような言動をする人間でさえそうだ。

いや、むしろ、そういう人間の方が「頭がいい」と言われたい願望が強い。執着といってもいいかもしれない。少なくとも、俺が見てきた範囲内ではそうだった。

普段、「学校の勉強」や、それと同じ分野のことに対して背を向けているような人間は、知的コンプレックスが強い。過去に勉強ができなかったからこそ劣等感を持っているし、劣等感を持っているからこそかえって憧れが強い。

彼らは、「頭がいい」と思われたがっている。
例えば、テレビで見かける評論家や、学者、ジャーナリスト、あるいは、たぐいまれな知能でもって歴史を変える発見をした偉人のように、誰も気づかなかった真実、見抜けなかった本質を見抜き、大勢の前で披露し、ちやほやされたいと思っている。
しかし、そのために必要な、知識や論理的思考力は欠けている。
では、どうするか?

彼らは、他人を評価することで、それを成すことにした。

以前、評価とは、自分の解釈の反映に過ぎない、という話をした。(その件について書いた記事はこちら「デッキを0から作れる人」=「自分以外は馬鹿」=「ガレージの竜」1/2

つまり、評価とは、この世の真実でも何でもない。
評価を作り出すのは、優れた知能ではなく、個人の価値観だ。つまり、知能にかかわらずだれでもできるし、そこに正解も不正解も、真実も欺瞞もない。
しかし、彼らは、自分の評価を真実と位置づけ、「自分は他人には見抜けない真実を見抜いている」と自分自身に言い聞かせることにした。

彼らの言う「キモイ」「無能」といった中傷は他の人間にとってはただの汚い言葉だが、彼らにとっては、この世の真実を射抜く一言だ。彼らの中では、この一言に対象の本質すべてが詰まっている。

彼らにとって、誹謗中傷とは金田一少年の言う「謎は全て解けた!」や名探偵コナンの言う「犯人はあなただ!」に匹敵する決め台詞だ。

そして、だからこそ、その一言には、自身の価値、誇り、存在する意味、アイデンティティといった、人間的価値の根本が懸かっている。
その時感じているのは、「楽しい」を超えた「楽しい」だ。満たされる自己肯定感、優越感、誇り。その時の感情は、何物にも代えがたい快感だろう。

彼らが容易に誹謗中傷をやめないのはここにある。

彼らにとっては、それは「自分は賢い」と人にアピールする、何より、自分で確認するための唯一の方法だ。

「誹謗中傷はやめなさい」という大人の注意は、ただただ彼らの誇りを傷つけるだけであって何の効果も発揮しない。むしろかえって意固地にしてしまいかねない。例えば、「どうして俺の正しさをわからないんだ」とか、「私の言うことがあまりに正しくて、反論できないからこんなことを言っているんだ」などと思いながら。

「誹謗中傷はだめ、筋道立てた批判ならいい」という言い方もあるが、彼らにその言葉は届かない。いや、届きはするが、彼らはこう思う。

「なら、自分は大丈夫だ」

そう、彼らには、自分が誹謗中傷をしている自覚がない。それもそうだ。彼らの頭の中では、ただ事実ありのままを言っているだけなのだ。
皆も一度は聞いたことがあるのではないだろうか?

「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いんだよ―wwwwだって馬鹿じゃんwwww」

みたいな。

ただの誹謗中傷、ただの自分の主観に過ぎないものを、この世の真実だと思っている。
そんな人間に、「批判はいい、中傷はダメ」と言ったところで、むしろ自信を深めかねない。

ある役者の方が、自分に対して中傷を繰り返してきた人間を特定したところ、ほとんど未成年だったらしい。
彼はそこで、

「大人として子供に『悪いことは悪い』と教えてやらなければならない。それが彼らのためだ」と信じ、彼らと「向き合い」、できるだけ告訴をしない話し合いで解決をすることを目指したらしいが、現時点ではその方向で実を結んでおらず、「謝罪をしてくれれば告訴はしない」と言えば、「脅すんですか?」と返ってくるなど、まるで話し合いになっていないようだ。そうtwitterで報告していた。

俺は、それを見て、「だろうな」と思った。
彼らに、そんな「大人の対応」など通じない。彼らはそもそも、正しいことをやっているつもりでいる。彼らからすれば、間違っているのは大人の方だ。
先ほど言ったとおり、彼らに「誹謗中傷はやってはいけないことだからやめろ」は彼らにとっては「誇りを捨て去れ」と言われているのと同じだ。その役者の方にとってみれば、「役者という仕事はくだらないからやめろ」という言葉に近いのではないだろうか?
それに加えて、こんな感覚もおそらく持っている。

「俺は、正しいことを言っている。大人は、道徳とか優しさとか思いやりとかを気にして言えないけれど、世の中の人が知っておくべき真実をあえて言ってやっている。それがわからないやつは頭の悪いやつだ」

そんな人間に、「大人の立場で、正しい道に導いてやる」なんて視線で接したところで、彼らは「ウザイ」の一言で片づけて終わりだろう。

それが誹謗中傷をする人間の心理だ。

では、やめさせるにはどうすればいいか。
彼らに自信をつけさせることだ。彼らの承認欲求を満たしてやることだ。

「やめなさい」
「いけません」

そんな言葉は、彼らの劣等感をさらに刺激して、反発を招くか無視されるだけで効果はない。
「ほめる」
これが一番いい。

おそらく多くの方が、中傷を繰り返す人間に対しては、憤りを感じていることだろう。そんな人間に対して「自信をつけさせてやれ」なんて言われると「馬鹿げている」と思うだろうが、それしかない。

そして、ほめるのはもちろん誹謗中傷をではない。他のこと、例えば「家事を手伝った」「宿題をきちんとやった」「成績が上がった」なんでもいい。些細な「いいこと」をするたびほめてやる。ほめられないなら「ありがとう」という感謝の言葉でもいい。

要するに、「自分は周りから認められている」そういう認識を持たせること。そういう小さな自信を少しずつ積み重ねていく。

もちろん、これには本人自身の努力を前提としている。

そのためには「このままじゃだめだ」と自分で気づいてもらう必要がある。

「何度やっていもいい結果が出ない」「何を言っても人が言うことを聞かない」そんな事実を見つめ、それを変えるためには自分が変わらなければならないことに気づく。

そこに自力でたどり着く必要がある。
こればっかりは、他人が手助けすることはできない。
大人がそんな子供たちにできることは何か。
ただ黙ってその瞬間がやってくるまで、彼らが中傷の火を吐き続けるのを待っているしかない。(焼かれるのを覚悟で忠告したいならとめはしない)
手を差し伸べるのは、彼らが目覚めてからでいい。

そして、もし自分に火の粉がかかったなら、粛々と払いのけるだけである。

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