以前、こんな言葉を聞いた。

バトルスピリッツというTCGを題材にした「エクストリームゲーム」というネットの番組で出演者が言っていた。

「デッキを0から作れる人は全国的にも少ない」

そして、この言葉に答えて

「0からデッキを作れる人が少ないとバトスピの将来が不安」とツイートした人がいた。

なるほどな。

たしかに「0から作る」と言われると、少なそうな響きを持つ。

しかし、そういう人は本当に少ないのだろうか?もしそうだとしたら、それはなぜだろうか?ちょっと検証してみよう。

客観的に言える「0」と言うのはどう考えても「カードを作るところから始める」ことだろう。だって、存在するカードを選んでデッキにするというのは、「まずカードありき」という地点から始まっているのだから。これでは「0から」ではなく「1から」だ。

つまり、「デッキを0から作れる人」と言うのはデザイナーのことでしかない。

しかし、これはユーザーに向かって言われた言葉だ。であるからには、この言葉は客観的な意味を持たない。

「1から」と言ってほしいが、発言者を尊重して元の言葉を残すのなら「ほぼ0から」と言うのが正しいだろう。

この「ほぼ」と言うのが問題だ。これがどの程度を指すのか?どんな意味なのか?

例えば、「過去のデッキを参考にしない」という意味なら、これって何年もプレイしている経験者にはもう不可能ではないだろうか?

なぜって、過去のデッキは彼らに経験として宿っているはずで、それをもとに作らないのは不可能だろう。

では、「誰よりも早く新しいカードを使った強いデッキを作れる」と言うことだろうか?

しかし、これは言葉通り「早い」だけで「0から作っている」とは言い難い。「どれぐらい早いか」と「どの段階から作れるか」では論点が違う。

では、「人の意見を聞かずに作れる」と言うことだったらどうだろう?

これはこれで厳しそうだ。「過去のデッキを参考にしない」がふさわしくない理由と一緒で、過去に聞いた人の意見を間接的にせよ参考にしている可能性がある。

これではあまり「0から」と断言することはできない。

どうやら、「0からデッキを作る」と言うのはちょうどふさわしいと言える定義はなさそうだ。

どれか一つに定義を絞るとしたら、多少の欠点には目をつぶる必要がある。

つまり、問題はここである。

ある評価の定義を客観的に決められない場合、どこかで、個人の主観、感覚によって決めつける必要がある。

「これが定義だ!(ドヤア」と言う感じで踏ん切りをつけて決める必要がある。

この発言者は彼の中に「これぞ『0からデッキを作れる人』の定義だ!」という気持ちがあり、それを人に当てはめている(悪く言えば”押し付けている”)と言うのが現実だ。

では「0からデッキを作れる人は全国的に少ない」のはなぜか?

それは、

客観的な事実として少ないのではなく、少なくなるように自身が定義している

と言うのが理由だ。

現実としてその事実があるわけではない。自分の評価方法によって少なくしているだけだ。

(続く)

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