真剣勝負とスポーツは同じものであるように思われている。

だが、少し調べて考えてみると、それはどうも違うと思えてくる。

真剣勝負とは。

今の多くの人が考えるところだと、「ふざけないで戦う」「真面目に試合に臨む」「遊びで試合をしない」こんなところだろうか。

あるいは「大きな名誉、賞金などがかかった絶対に負けられない戦い」という意味にもとらえているかもしれない。

きっと大多数が、

「”スポーツ”の中で行われるものが”真剣勝負”」

そんな風に思っているのではないか。

ただ、言葉を”真剣”と”勝負”の二つに分解してみると、「真剣」とは「本物の剣」つまり、模造品でもしないでもないものを切ることのできる刀のことだとわかる。

つまり、「真剣勝負」のもともとの意味は「本物の刀を使った勝負」つまり「殺し合い」だ。

対してスポーツとは、日本スポーツマンシップ協会の会長 代表理事を務める中村聡宏氏によれば(参考記事:改めて問う、「スポーツマンシップとは何か?」 今こそスポーツ界で考えるべき原理原則

「運動にゲームの要素が加わっているもの」をスポーツと定義しています。「ゲーム」とは「ルールに基づいて競う遊び」のこと。

ということらしい。

つまり、スポーツとは「遊び」のことであり、「殺し合い」とはかけ離れている。

ここに、スポーツと真剣勝負の相いれなさがある。

以前、こんなツイートを見た。

そのツイート主(以下A)はバトスピの大会中に、店の大会で対戦していた時のこと。相手に残りのデッキ枚数を聞いたそうだ。

バトスピでは、デッキが0枚になった時敗北するというルールがあり、そのデッキのカードを減らす戦法があるため残りデッキ枚数は勝敗に直結する重要な情報だ。
そして、その情報はお互いにとって公開情報であり、虚偽の申告はルール違反だ。

残りのデッキ枚数を確認したAは、相手のデッキを削った。枚数ぴったりで勝利のはずが、1枚残り、Aは敗北した。

Aがなぜこんなことになったのか相手に確認したら、相手は虚偽の申告をしたことを認め、こういったそうだ。

「真剣勝負なんで」

それに対してAは「真剣勝負をなめてる」と怒りのツイートをしていた。

さて、実際に彼の対戦相手は真剣勝負をなめているのだろうか?

バトスピの中で行われているのが「真剣勝負」だと仮定する。

その場合俺はむしろ、なめているのはAの方だと思う。

真剣勝負は殺し合いだ。
負ければ死あるのみ。
以前俺は「イカサマをして勝つか、イカサマをしないで負けるか」という二択を提示したことがあったが、真剣勝負においては「イカサマをして生き残るか、イカサマをしないで死ぬか」という二択になる。

そんな中で、手段を選ばなかったところで非難できる人間がいるだろうか。

真剣勝負に臨むものならその程度の卑怯な方法などやって当たり前だし、それぐらいのことに対抗策を用意していてしかるべきだ。

過去の記事(バトスピイカサマ問題余談③ 勝利至上主義とイカサマの親和性)に載せた、マンガ「ワンナウツ」の主人公・渡久地東亜の言葉をもう一度見てみよう。

「勝負に勝つってのは、相手を力で上回ることでも、ましてや幸運を待つことでもない。負かすこと、蹴落とすこと、躓いたやつを踏み潰すこと。勝ち残るってことは、屍を超えることだ。美しいもんじゃない、むしろ残酷」

さらに、マンガ・「はじめの一歩」の中で、主人公幕ノ内一歩が対戦相手のハンマーナオという選手から反則を受けるのだが、それを審判が見ておらずそのまま続行されるというシーンがあった。

その時、一歩が所属する事務の鴨川会長はこう語った。

「ハンマーナオが上手い、そして小僧が甘いのだ」

これらから、”真剣勝負”に臨むときの心構えというものがわかるだろう。

真剣勝負なら、自分が勝つためにデッキ枚数を偽るなど当然のことだ。

ただし、バトスピがスポーツ(ゲーム)なら話は逆転する。

スポーツは遊びだ。
先の中村氏はこう言っている。

「スポーツは全員が勝利を目指さなければならないし、全員がルール、相手、審判を尊重しなければならない。」

スポーツにおいては相手を尊重するのは必要条件だ。
嘘も反則もそれを満たさない。

Aは真剣勝負をなめていた、しかし、スポーツはなめていなかった。
逆に、対戦相手は真剣勝負をなめていなかったが、スポーツをなめていた。

スポーツと真剣勝負は同じに見えて実は正反対のものだ。

真剣勝負は「どんな手を使っても勝つ」「反則があるなら即使え」という精神だ。
ある意味とてもシンプルだ。

だが、スポーツとなるとちょっと事情が違ってくる。

勝利は目指す、だが、不正をしてまでやってはいけない。自分が楽しくとも、相手が楽しくなければやってはいけない。

「勝利と清廉」

ある意味では矛盾する二つの命題を同時に実行する必要がある。
プレイヤーに強く行動を自制し、そのうえで勝利を目指すのがスポーツだ。

その時、

ただ「勝てればいい」と考えている時よりもさらに高い実力を備える必要がある。

中村氏が

「今、世の中が抱えているさまざまな社会問題を解決するのに、スポーツマンシップは非常に有用なのではないかと私は思っています。」

と思うのも無理からぬ話だ。

さて。

ここで俺はスポーツにかかわるもの、スポーツを見るものすべてに議論を促したい。

スポーツは真剣勝負であるべきか、日本スポーツマンシップ協会の定める「スポーツ」であるべきか。

スポーツが真剣勝負なら、先ほども言ったように「反則があるなら即使え」の精神で行うべきだし、見るべきだ。

先の記事では、物議をかもした、サッカー日本代表のワールドカップグループリーグポーランド戦におけるボール回しもむしろ称賛されてもよい(こういう微妙な書き方をしたのは、俺自身は、「勝つため」という観点からしても称賛するような行為ではないと考えるからだが、詳細はここでは触れない)。

そういうものを「子供たちに見せたくない!」とでも思うのなら、今後スポーツはR18にでもするといいだろう。

だが、スポーツであると定義するならば、今度は「真剣勝負」という言葉と決別する必要があるだろう。

これまでずっと「真剣勝負」と言っていたところに、「グッドスポーツ」を代入しなければならない。

「1対1のグッドゲームをしよう」
とか
「グッドゲームをなめている」
とか
「絶対に負けられないグッドゲームがそこにはある」
とか。

いや、最後のは違うか。

ともかく、そのように言葉、何より意識を変えていかなければならない。

今のスポーツ界、そして観客たちを見ていると、スポーツと真剣勝負の矛盾を理解していないために、ひずみができているように見える。

観客はグッドゲームを望んでいるにもかかわらず、スポーツ選手は勝ちを目指していたり、あるいはその逆だったり。
また、「真剣に勝ちに行け」と指導した子供たちに「反則はいけないことだ」と言ったら、「どうして?」と言われ、返事に困るかうまく説明できずに困ったなんてことになったり。

真剣勝負とスポーツは相いれない。

この現実を理解し、きちんと整理できればそういう問題は起こらずきちんと解決できる。

よって、俺は、みんなに議論することを求めたい。
正しい論理の筋道は変えることはできないが、イメージは変えることができる。変化をいとわず議論することこそ、いま必要なことではないだろうか。

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