一本の道路を挟んで人と対峙している。

その相手は思い人だ。

相手に向かって思いを伝えたい。だが、目の前に大きなトラックが止まってしまい、声を届けることも姿を見ることも出来なくなった。

自分の方にはそのトラックにラッピングされた会社のロゴマークや電話番号が見えている。

では相手の方は?

何が見えているかはわからなくても、同じものが見えているとは限らないことはわかるだろう。

成人したものならば、同じ物を見ていても自分と相手では見ているものが違うことは十分に理解できるはずだ。

しかし、トラックのように物理的な見え方の違いは理解できても、

抽象的な概念の見え方の違いはそうではないようだ。

抽象的な概念とは、「味覚」で合ったり「美しさ」だったり「評価」だったり「価値観」だ。

たぶん、真剣に学び、真剣に考えなければ身につかない。

少なくとも俺自身は、何も学ばず身につけていたということはなかった。

基準の違いによる物事の捉え方の違い
視点の違いによる見え方の違い

このシリーズでは、その説明に卑近な例を挙げたが、それらは全て、過去の記事「デッキを0から〜」「評価は人が決めるもの」のような話を理解する鍵となる。

さらに

白人と黒人、どっちが偉いか?
イスラム教とキリスト教、どっちが正しいか?
日本人と中国人、どっちが優れた民族か?
クラシックとロック、どっちがかっこいいか?
映画と小説、どっちが知的か?


このような、世界や人生の進路に大きな影響を及ぼすような価値観の違いについて考える上で極めて重大な思考回路だ。

そして、先の記事でも話した「知のスケール」を大きく広げるためにも必須だ。

価値観の違いを理解できない人間はもちろん、「理解出来ている」と思っている人にもよく身につけておいて欲しい。

これは極めて理性的な話であり、人類史に登場した期間も短い。

「できなくて当たり前」の話だ。

だからこそ、真剣に身につけようとしなければ身につく技術ではない。

うっかりすればいつでも失敗してしまい、その結果、あらゆる議論を損ね、合理的な選択を選べず、得られるはずだった利益すべてを失ってしまいかねないのだ。

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