卑怯な方が強いという現実

さて。

「強さとは、試合に勝つこと」だということを確認した。

これを確認すると、ある問題が湧いてくる。それは、

「卑怯な人間の方が強い」ということだ。

試合に勝つうえでは、手段を選ばずなりふり構わず勝ちいく人間の方が勝ちやすい。

ちょっとした実例を挙げると、2010年の南アフリカで行われたサッカーワールドカップのウルグアイvsガーナの試合で、ウルグアイの選手スアレスが、手を使って相手のシュートを防いだ。彼はゴールキーパーではないので当然反則だ。レッドカードを受けて退場となったが、その後のPKでガーナの選手が外し、この試合はPK戦にまでもつれた結果ウルグアイは勝利した。

これは、「フィールドプレイヤーは手を使ってはいけない」という前提を崩して自分を有利に運んだ結果、勝利の確率を上げた。

動画があれば見てほしいが、そのシーンを見てみると、同点の場面、試合終了間際、手を使わなければ到底届きそうにないボールを防いでいる。

勝率0%を少なくとも20%までには上げている。(サッカーにおいてPKの成功率は80%ほどらしい)

「卑怯な方が強い」をある意味では実証したと言える。(余談だが、このスアレスの行為が是か非かという議論は、ルールを守ることと強さについて、「勝負に臨む人間にとってのルールとは」という命題について深く考えるのにとてもいい題材だと思うので、周りの人と議論してみてはどうだろうか?特に、スアレス自身のコメントと共に考えるとなおのこと良い。参考-スアレスが南アW杯ガーナ戦のハンド事件を回顧「選手としてできることをしたまで」

「反則があるなら即使え」とは、マンガ「範馬刃牙」の中のセリフである。これは勝つための理屈としては正論だ。

だが、こういう考えには反発する人が多い。実際、ツイッター上で、不正を行った人というのはすぐに炎上する。

これは実に問題だ。

「勝負事で本当に楽しむ為には強さが要る」というのなら、「勝負事で本当に楽しむ為には卑怯さが要る」とも言えるはずだ。

しかし、実際にその卑怯さは歓迎されないどころか否定されるのだ。

ここに矛盾がある。

そんなに強さが大事だというのなら卑怯さを認めるべきだ。むしろ奨励すべきだ。

否定する人がその理由に挙げて曰く、

「それは本当の強さじゃない!」

ではその本当の強さとは何なのか?

これも「本当の楽しさ」と同じ理由で否定できる。

強さも比較によって決まるもの、相対的なものであり、また「強さとは何か」と言う命題は人それぞれの考え方によるものなので、「どれか一つが本当だ」とは決められない。

何が大事で、何が善で、何が悪で、何が楽しくて、何がかっこいいか、何が強くて、何が弱いか。そういうものは、決め方によって変わる。その時々の状況や事情によって変わる。
それらは相対的なもの、つまり、比較によって決まるもの、あるいは基準となる何かがあって初めて決まるものだからだ。

そして同時に、客観的な検証が可能なものではない、つまり、物的証拠や信頼できるデータを出して決められるものでもない。

そういうものに対して「これこそが本当だ」と言うのは無理がある。

ましてや「俺の考えこそが本当だ」などとは言えるはずもない。
1人で勝手に思っている分には構わないが。

そこを「我こそは正義」と思い込んだ人間が、「それ以外の考え方は存在してはならぬ」とばかりに他人に押し付けるからおかしくなる。
(筆者注:件のセリフは「ハイキュー!」の作品内では、前後を読むと、自分に語り掛けるように言っているので、作中の人物は他人に押し付ける意図はないように見える。ただ、これを他人に押し付けるように使っている人間はいる)

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