「強くなる」ことと「楽しむこと」の関係

こうして言葉の意味の原点に立ち返り、「勝負事で本当に楽しむ為には強さが要る」と人に言いたがったりする動機を分析してみると、そこにあるのは傲慢さと不寛容と無知無理解、そしてそれらをごまかすための屁理屈が見て取れる。

「自分は正しい」と思いこんだ人間が自分の考えを押し付け、そこで反論されたから適当な屁理屈でごまかした、というところじゃないだろうか?

俺は勝負に勝つと楽しい。

皆もそうに違いない。

だから勝つことを至上の目的としたい。

でも、それをやったら卑怯な真似を許さなくちゃいけなくなる

不正や反則は許さない。

だったら「本当の強さ」ってものを創り出してしまおう。

「本当の強さ」がなければ「本当の楽しさ」などないってことにしよう。

それ以外の考え方はありえない許さない全部つぶしてやる。


たぶんこんな感じ。

卑怯を嫌う人間がそれを否定するためにこざかしい屁理屈を振りかざす、というのは皮肉な話だ。

勝利を第一とするなら反則も不正も「勝つための技術」とみなす。スアレスやハンマーナオがそうであるように。

それ以外にない。

では「不正や反則をなくしたい。出来ればルールによってではなく、選手の自発性によってなくしたい」と思うならどうすればいいか?

簡単だ。

「まずは楽しむことを目的とする。強さは結果に過ぎない。そしてどの程度強くなりたいかは本人次第」

と考えればそれでいい。

楽しむことを第一の目的とすれば、不正や反則などあってはいけない。それを嫌う人が多いからだ。
自分が楽しければいい。しかし、勝負事には必ず相手が要る以上、相手がいなくなっては何もできない。
さらに言うと、自分が楽しむには、そのジャンルが無くなっては意味がない。そのためには人口が増えた方がいい。そのためには、不正や反則が跳梁跋扈している環境では具合が悪いだろう。

「反則や不正が横行している方が人が集まる」と言う意見があったら驚くべきことだが、もしあるなら聞かせてほしい。

自分が楽しむために人を楽しませる。

人を楽しませることを考えれば不正と反則は行われない。

そうすればおのずと健全な環境が出来上がり、いわゆる「本当の強さ」とやらも身につく。


こんな好循環が生まれるのではないだろうか?

強さを至上目的とする代わりに卑怯を肯定するか、強さを至上目的としない代わりに楽しむことを優先するか。

どちらか好きな方を選んでくれ。

次の記事を見てほしい。
「説得力ある」・「全てに同じことが言える」ボルトが日本の陸上界に贈った言葉に共感続々

ウサイン・ボルトが桐生祥秀にアドバイスを送っている。

「まずは楽しむこと」
「自分のために走ること」
「それが日本のためになる」


さらに、ちょうどこのシリーズを書いている途中、こんな記事がツイッターのトレンド入りをした。
DeNA筒香「球界の変わらない体質」にモノ申す
子供の「野球離れ」は大人が作り出した必然だ


DeNAの筒香選手が日本球界に向けた提言だ。

「子供たちのためにと考えてみた時に最初に気がつくのが『勝利至上主義』」
「今の子供たちは、大人、指導者の顔色を見てプレーをしている、怒られないようにプレーをしているということ。」
「ドミニカ共和国では指導者は何も言わずに子供たちを見守っています。そんな中で、小学生の子供たちがジャンピングスローやグラブトスを当たり前のようにやっています。指導者はそうしたプレーでミスをしても何も言いません。だから子供たちは失敗を恐れず、何回も失敗しながら新しいことにチャレンジしていきます。僕は、子供たちが何の躊躇もなくチャレンジしている姿を始めて見ました。」
(原文ママ)

何かここまで話してきたことと通じるものを感じないだろうか?

ボルトの言ったことは、俺が先ほど言った好循環が念頭にあるのではないだろうか?

筒香選手が報告してくれたドミニカの野球環境は「楽しむ」ことを優先していると言えないだろうか?そうと意識していなかったとしても、結果的に子供たちの姿勢は同様なのではないだろうか?

もしも、日本とは違って、「まずは楽しむ」ことを考えたほうが苦しい思いをせずに済み、その方が上手くなり、不正や反則も減り、その分野に人が集まり発展するというのなら、我々は今まで何をさせられてきたのだろうか?

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