鉄之助と船で帰ってきた隊士・渡辺市造〜その四 | 土方歳三資料館日記 (Hijikata Toshizo Museum Blog)

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土方歳三の生家跡に設けられた資料館にて運営に携わる子孫の綴る日記。

渡辺市造を、古賀茂作編の講談社刊「新選組全隊士録」で引きますと

渡辺市造

とあります。
現在刊行されている他の本での解説はこれが大元だと思います。そして脱退時期の根拠は横倉甚五郎の手記に基づいています。「両長召抱え」とは、一番隊…などの隊に属さず、近藤土方直属だったということで、市村鉄之助も同じ立場でした。

そして、「箱館に渡ってはいない」と否定するには、つじつまの合わない記録もあります。

島田魁は、京都より会津迠人数の両長召抱人で、市村鉄之助や井上大助などと名を連ね、脱走の三角印が付されているが、横倉甚五郎は、京師にて暇としている。しかし、不思議なことだが、間宮魁「箱館脱走人名」に土方附属として、市村鉄之助、玉置良三につづいて渡辺市蔵と箱館渡航の一員としている。(新選組のすべて  1971年新人物往来社 より)

時間が無く、上記の原史料にあたっていないので、原本を見ないと現段階では正確なことはいえませんが…。

父・七左衛門の入隊の記録はいくつかの史料をあたりましたが、見つかりません。父は慶応元年死亡とあるので、もしかしたら新選組入隊と同時に渡辺家での戸籍上は死亡としたのかもしれません。


これらが、すぐに判る情報なのですが…。


私は渡辺家が三鷹である事から、
何か土方家と関係があったかもしれないと
石田散薬の村順帳を精査してみました。




ありました。

1


「連雀 三 山岸屋萬助」
4


渡辺家は下連雀。代々世襲名は萬助です。醤油醸造業を営んでいたということで、山岸屋は屋号ではないでしょうか。




これからは、私の憶測となりますが…


土方家石田散薬の得意先であり、当時池田屋事件で名をはせた新選組へ、渡辺七左衛門は土方歳三をつてに入隊した。
何らかの都合で入隊記録には記されないまま戦死する。そのとき既に同行していたか、後日の慶応3年入隊者募集の際かは判らないが、七左衛門の長男・市造も新選組入隊する。長男は入隊させないというポリシーがあったが、歳三は父七左衛門の死に関連して、若い市造を直接面倒見るつもりで「両長召抱」として加入させる。
石田散薬の行商を通して面識のあった渡辺家のものであれば、近藤・土方共に郷里の話題も共有でき、間諜の多かった当時安心して世話役としてそばに置くことが出来た。
鳥羽伏見の前に、怪我をした近藤または沖田の付添役として離隊させるも、市造は今更郷里に帰ることも出来ずに、再びどこかで合流し会津箱館と同行する。が、父子共に失うことになる郷里の旧家である渡辺家の立場を慮り、名簿には極力載せていない。
箱館戦争が最終局面を迎えたと感じた歳三さんが、16,7歳の二人を生きながらえるようにと、イギリス船に乗せた。歳三さんは大垣出身の市村が敵に捕まらず、横浜で下船してから生き延び、土地勘のない中日野へたどり着くには、多摩出身の市造が助けになると思い、生存確率が高くなる二人での帰還を実現させた。

市造は、鉄之助と甲州道中まで同行し、「この道をまっすぐ行ったら日野宿に着く。左側に副長の親戚宅があるから、身を寄せるといいよ。」と教えてあげたのではないかと思います。

市造自身は、もう実家に帰れないと判っていて、そのまま人が多く身を潜めやすい大都市川越を目指したのではないでしょうか。

渡辺家が醤油醸造業を営んでいたとすると、石田散薬得意先で所沢に同業の得意先が数件有りますから、もしかしたらつてを頼って行ったのかもしれません。鉄之助さんには親戚をかくまってくれるだろうからと紹介し、市造さんには石田散薬の得意先で心当たりの家を「頼って行きなさい」と紹介したかもしれません。




もう、今では、想像するしかないです。



でも、歳三さんだったらそうしたんじゃないかなと思います。
本来なら長男を参加させたくなかった。せめて若い二人を帰したい。徳川脱士について本当のことを語り継いでほしい。そんな気持ちになったのではないでしょうか。

そして二人は船の中で歳三さんの訃報に接し、手を取り合って帰ってきたのではないでしょうか。

いつ捕らえられるか、という不安の中で生きながらえ、生涯お互いがもう一方の存在について口をつぐんだのは自然なことだと思います。



その伍に続きます。
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