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和して同ぜず

頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

3/12の時点において3/13に進展(ライフライン/交通(主に鉄道))がなければ地元に帰ることを決意。以下理由。

①(電気の通った)住居がある
②『暖』がある(ストーブ/暖房)
③食料が比較的安易に入手可(コンビニ/炊き出し/デパート/物資)
④帰る場所がある
⑤より被害の酷い地域(主に津波)に援助をできるだけ回せるようにする

2011/3/16

震災二日目…



5:30<ロビーにて起床>薄暗い空を硝子越しに見上げた。嫌な静けさ…
・ヘリは飛んでないな。つまり、まだ対応は出来てない。当たり前か…
・フロントの固定電話も夜中に使えなくなったらしい 
・ホテル側はチェックアウト後、客を保護する義理はない。居所を探さねば。
・見通しが立たない。何をすればいい?衣食住に分けて整理。現状とその後の分析。まず、「衣」、そもそも2泊の予定、着替えなど無かろう、下着、靴下も替えがあるだけ。この際、濡れなければよい。「衣」はクリア。「食」、ウイダー2、ソイジョイ1、350㍉㍑ボトルお茶1、いけて3日で尽きるな。中止、とはいかにも曖昧だ。日にちはいつ?現時点では仙台滞在を考えていたため、見通しが立たない。「住」ホテルは今日にも追い出されるだろうとは思っていた。ならば、小学校。いや、市役所、県庁がある。行政の中枢。
行くならこちら。



8:30<ロビーにて、会話、受験生、その親に接触>
・情報交換、及び、精神安定を求める。当たりだ。頻繁に外をうろつき、情報をかなり持つ様子。すかさず、我が親から得た東北大入試中止の情報を提供。これ以降、行動を供にすることに、
得た情報。それは避難所小学校の環境の劣悪さ。毛布は足りず、とにかく寒い。昨日は下駄箱まで人がいた。と


9:00<公衆電話を求め、仙台駅へ>
・沢山の人、寒いが野宿か?公衆電話には列。寒い、が、情報が大切だ、待つことに。30分程で自分の番に、まず東北大の入試センター、繋がらず、友人の携帯、繋がらず、家に、東北大に関しては昨晩と進展なし、交通復旧目処立たず。有力な情報なし。離脱。
ホテルへ。帰りに、駅前のコンビニが食料を売り始めたことを知る。避難所へと勧告を受ける。


10:00<普通なら試験開始、現状はホテル退出時刻>
・他の受験生らしき人々と供にホテルを出る。
・徒歩で市役所へ。
・とりあえず、一息着く。
・ラジオで原発に対して湧いてると、知る。なんか違和感を感じた。焦点ズレてないか?
・外での情報獲得、食料確保すべく、街に出向く。外観は装飾がちらほら落下する程度か。(後の会話で中で酷いことになっていたのもあることを知る)あとは、地割れ 、タイルのズレ(隆起、陥没)か。並んで、コンビニ。意外にも、保存食(ソイジョイ、朝バナナ)は残っていた。また、ぽつぽつとコンビニや炊き出しやスーパーが起動。



14:00<携帯が機能し始める。メール、ウェブは時折、接続可>


14:30<試験があると思っていた>明るい内に勉強を行う(英単語、難系)。明るい窓に向かって行う。


17:00<大切な事に気づく>
・勉強中、隣に遠くを見つめる女性(高校生或は、大学生)に気づくも、勉強を続ける。と、突然、泣き崩れた。泣き声を明確に捉える。ギクッ…。全身を鳥肌が立つのがわかった。
・女性に限らず、連絡のつかない身内がいる人が沢山いる。当たり前のことに気づく。自己嫌悪。
勉強の手を止める。
・精神的衛生上比較的安定なのは、こちらに知り合いのいない僕らのような存在だけ。この場所にいてはいけない存在。直感する。


18:00<クラッカー、支給>
・因みに、製造元:山梨、製造月日:平成18年。真空パックにて保存。
・仙台⇒山形のバスが出てるとの情報が入る。
・電気の回復(重油式自家発電?)
・情けないが電気の復旧で気が緩む。
・携帯の充電に人が群がる。


21:00街の様子を見に外出。炊き出しあり。
1:00<東京からの訪問者>
・消灯のため、外で携帯をいじる。
そこで颯爽と一人の人物(服装はカジュアル)が仙台市職員に話かける。東大法学部出の官僚?(行政者)がたまたま仙台で足止め食らって、仙台市の対応を24時間チッェックして、なんも進展してない。行政に携わる者として恥ずかしい。しっかりしてくれ、と。
淡路も現場に入っており、テレビから入る情報は被災者にとって精神安定となる。と。
あんたちは、テレビの報道を聴いたのをそのまま、被災者に伝えているだけだ、つまり被災者と同じ立場で待っているだけだ、と。
新聞壁に貼ってやったきになっているだけだ、誰も見てない、と。
私は、JRは先程の大きな余震で金曜まで、手を付けないこと、直接、テレビ局から情報を仕入れた、と。
わざと、カジュアルな服装に着替え、名刺も持たず(指揮権の問題?)、作戦本部に言いにいったが、やってますよ、と突き放された、別に難しい要望ではないでしょ、あなたがたから軟らかく伝えてくれ、と。
僕の部隊も山形経由で向かってるし、チェックしたことに関しては上に報告するから、と。
そう言って帰っていった
たまたま居合わせた。つまり部外者で一部始終聴いたのは私だけだろう。


1:40<青森のおばあちゃんとの会話>

・暗くなった避難所に入るとまだ起きている人がいた。一部の人は酒を飲んだりしている。
おばあちゃんが起きていたので不思議に思い、話をした。青森の八戸に家がある、何の情報も入ってこない。不安で眠れない、と。俺は無力だ、と感じる。なんて言葉をかけていいかもわからない。話し相手になる資格もないのか。逃げるように床に着く。

2011/3/16

09:07新大阪発:JR新幹線のぞみ220号

11:43東京着

11:56東京発:JR新幹線はやて25号


13:37仙台着
・仙台の友人と電話
・北川内キャンパス(仙台駅より徒歩約20分)に下見に行きつつ会うことになる。



14:00<チェックイン>
・荷物の整理
・ホテル滞在時間約15分
・バス停の位置を確認
・仙台駅バスターミナルへ


14:46<バスターミナルにてM9.0の揺れを体感>
・屋外、陸橋の上、地面が固定でない恐ろしさ、何かに捕まっていないと立てない、ビルは粉を噴き、ガラスはひび、そして破壊、悲鳴、悲鳴、悲鳴…地震映画の描写はあながち嘘ではないと冷静(?)に判断、仙台駅は全体が音を立て、軋む。この時、これがどれほどの被害を生み出すかなんて考えなかった。なぜなら、規模が小さいと感じたから。淡路大震災の映像程の被害はその時は垣間見ることが出来なかったから。
・揺れが収まったので、バスに乗りキャンパスへ向かう。携帯はその時すでに何も機能しなく、(電話、メール、ウェブ)、友人との連絡が取れず、未開の地で独り、途方に暮れる。
キャンパスに到着。公衆電話で友人にかけるも繋がらない。
・とりあえず、ホテルへ。バスが運行してないことを知り、徒歩で仙台駅へ。雪が降り始める。セブンイレブンを視認。入る。停電。人だかり。大量の人が並んでいたため、傘とウイダーを手に取り、レジに千円を渡し、釣りは貰わず、仙台駅へ。雪止む。信号止まっている。警察が動きだし、交通整理。余震は続く。
・ホテルに着く。閉鎖の文字。愕然。避難所に向かおうとする。周りのコンビニは全て閉鎖。頼れるのはホテル。もう一度ホテルへ。フロントに従業員あり。部屋の荷物を取り、ロビーへ。
19:00頃、ロビーで待機。携帯は未だポンコツ。残量を気にしはじめる。余震は続く。
ロビーの電話で家と連絡が取れる。報道を知る。驚異。実感はなかった。情報がいる。夜の仙台駅へ。沈黙。一階に足止めをくらった人の群れ。避難所がパンクしたことを知る。揺られながら、ロビーで一夜を明かす。
2011/3/17