宰予の昼寝。 -5ページ目

宰予の昼寝。

気の向くまま。
生業:システムエンジニア
知識傾向:東洋史

さて、珍しく連続更新。

今回は、武帝紀の陳寿本文から太祖武帝こと曹操の年表を作ってみようと思います。

陳寿精神に則りなるべく簡潔に書こうと思います。


※年代等他の紀伝を参照すると判明になる箇所もありますが、

  ひとまず、武帝紀「のみ」を参照して記載しています。

  基本的には曹操の動静のみを抜粋しますが、

  それ以外に記載しないとその動静が判明にならない事項は「※」の後に記載します。

※[後記]全く簡潔にならなかったので、1行目にその年のトピックを

  隅付括弧【】で書いてみました。なんだか下手なドラマのサブタイトルみたいになりましたが……。


☆☆☆☆☆☆太祖・武帝・曹操年表☆☆☆☆☆☆

■155年(永寿元):1歳【曹操誕生!】

 沛国ショウ[言焦]県に生まれる。父は大尉・曹嵩。

■174年(熹平3):20歳【官職デビュー】

 孝廉に推挙され、郎となる。

■?【治世の能臣】

 洛陽北部尉となる。

 頓丘の令となる。

 中央に呼び戻され、議郎となる。

■184年(光和7):30歳【黄巾の乱、起こる】

 黄巾の乱が起こり、騎都尉に任ぜられ、潁川黄巾を討伐する。

■?【雌伏の日々】

 済南国の相となる。贈賄汚職を摘発し、衆を惑わす祭祀を厳禁する。

 東郡太守に任じられるが就任せず、病と称し、郷里に帰る。

 召しだされ、典軍校尉となる。

■189年(中平6):35歳【挙兵】

 ※霊帝が崩御し、少帝が即位する。

 ※何進が宦官に殺害され、袁紹らが宦官を殺害する。

 ※董卓が洛陽に入り、少帝を廃し、献帝を立てる。

 12月:董卓より驍騎校尉に推されるが、都を抜け出し、陳留で義兵を集め、己吾で挙兵する。

■190年(初平元):36歳【董卓に敗北―天下に君無かるべからず―】

 正月:関東の諸侯が挙兵し、袁紹が盟主に推挙される。

     奮武将軍を兼務する。

 02月:ケイ陽のベン水で董卓の将軍・徐栄と交戦するが、敗北し、酸棗に退却する。

 揚州に赴き、募兵を行い、河内に駐屯する。

■191年(初平2):37歳【群雄割拠】

 黒山賊が魏郡を攻略する。濮陽で黒山賊・白繞を攻撃し破る。

 袁紹により東郡太守に推され、東武陽に政庁を置く。

■192年(初平3):38歳【青州兵―魏武の強、これより始まる―】

 春  :黒山賊・于毒、スイ[目圭]固、匈奴・於夫羅を攻撃し、破る。

 鮑信・万潜に推され、エン州牧となり、黄巾を寿張の東で破る。黄巾を追い済北まで進む。

 冬  :黄巾の降兵30万人を受け入れ、青州兵と名づける。

 ※袁紹と袁術が仲違いし、袁術は公孫サンと結ぶ。

 袁紹と協力し、公孫サン方の単経(在平原)・劉備(在高唐)・陶謙(在発干)を攻撃し、破る。

■193年(初平4):39歳【征討の日々】

 春  :匡亭・襄邑で袁術を破り、袁術は九江へ逃走する。

 陶謙を討伐し、10余城を陥落させる。

■194年(興平元):40歳【怒りの徐州】

 夏  :父曹嵩が陶謙に殺害され、再び陶謙を討伐する。通過地域で多数のものを虐殺する。

 ※張バクが陳宮とともに叛き、呂布を迎え入れる。エン州は3県を除いてこれに呼応する。

 呂布と戦い、100余日対峙するが、蝗害があり、両者とも軍を退く。

■195年(興平2):41歳【エン州平定】

 定陶・鉅野・東緡で呂布を破り、雍丘で張超(張バク弟)を破り、エン州を平定する。

 冬  :エン州牧となる。

■196年(建安1):42歳【2つの切り札―献帝擁立・屯田制―】

 正月:武平を攻め、陳国相・袁嗣が降伏する。

 02月:潁川・汝南黄巾を攻め、劉辟・黄邵を斬る。

 洛陽に赴き献帝を擁し、董昭の献策を用いて、都を許に遷す。

 10月:楊奉を討伐する。

 節鉞を仮し与えられ、録尚書事となる。武平侯となる。司空・車騎将軍となる。

 棗祇・韓浩の意見を容れ、初めて屯田制を実施する。

 呂布に追われた劉備を受け入れる。

■197年(建安2):43歳【苦い敗戦―諸卿、これを観よ!自今以後、復びは敗れず―】

 01月:宛に赴き、張繍を下すが、再び叛かれて敗北し、曹昴・曹安民を失う。

 再び張繍と戦い、これを破り、張繍は穣に走り、劉表と連合する。

 09月:袁術が陳に侵入したため、これと戦って破り、橋蕤・李豊・梁剛・楽就を斬る。

 11月:張繍・劉表と戦い、湖陽・舞陰を落とす。

■198年(建安3):44歳【中原の虎の最期―虎を縛るに、急ならざるを得ず―】

 05月:張繍・劉表と戦い、これを破る。

 呂布を討伐し、下ヒで呂布・陳宮を捕らえ、斬る。

 太山の臧覇・孫観・呉敦・尹礼・昌キを捕らえ、青州・徐州の海岸地帯を委ねる。

■199年(建安4):45歳【河北絶交】

 04月:曹仁にスイ[目圭]固を討たせ、河内を平定する。

 08月:臧覇を青州に侵入させ、于禁を黄河南岸に駐屯させる。

 11月:張繍が降伏する。

 12月:官渡に陣取る。

 劉備が反し、沛に駐屯する。劉岱・王忠に攻撃させるが勝たず。

■200年(建安5):46歳【官渡―これ天下の大機、至弱を以って至彊に当たる―】

 正月:董承らの計画が発覚し、全員処刑される。

     劉備を征伐し、関羽を捕らえ、劉備は袁紹の許に走る。

 04月:荀攸の献策を用い、袁紹の将・顔良(於白馬)、文醜(於南阪)を攻撃し、斬る。

 官渡で袁紹軍と対峙する。

 10月:袁紹の謀臣・許攸が降り、その献策を用いて、淳于瓊を攻撃し、破る。

 袁紹の将・張コウ、高覧が降り、袁紹軍が総崩れとなる。

■201年(建安6):47歳【劉備遁走】

 04月:袁紹の倉亭駐屯軍を攻撃し、これを破る。

 汝南に劉備を征討し、劉備は劉表の許に逃れる。

■202年(建安7):48歳【故郷に還る―悽愴傷懐―】

 ショウ[言焦]に駐屯し、布告を出す。橋玄を祭る。

 09月:袁譚・袁尚と戦い度々これを破る。

■203年(建安8):49歳【袁家分裂】

 08月:劉表を征討し、西平に駐屯する。

 袁譚・袁尚が仲違いし、袁譚が降る。

■204年(建安9):50歳【ギョウ攻略―既に冀州を得たり、諸君まさに久しからずしてそれを見る―】

 08月:ギョウを攻めてこれを陥れ、守将・審配を斬る。袁尚は中山に逃れる。

 09月:冀州牧となり、エン州牧を辞する。

 12月:袁譚を攻め、平原その他諸県を平定する。袁譚は南皮に逃れる。

■205年(建安10):51歳【河北新時代―ともに更始せん―】

 正月:袁譚を攻撃し、これを斬り、冀州を平定する。

     袁煕の将・張南、焦触が降る。袁煕・袁尚は三郡烏丸の許へ逃れる。

 04月:黒山賊・張燕が10万余の軍勢を率いて降伏し、列侯に任ぜられる。

■206年(建安11):52歳【西へ東へ】

 正月:并州の高幹を壺関に攻め、これを破る。

 08月:海賊の管承を征討する。

■207年(建安12):53歳【烏丸平定】

 02月:封爵を行い、功臣20余人を列侯にとりたてる。

 三郡烏丸を征討し、白狼山でトウ頓及び名王を破り、斬る。

 09月:遼東の公孫康が袁煕・袁尚を斬り、首が届けられる。

■208年(建安13):54歳【荊州・赤壁・疫病】

 正月:玄武池を作り、水軍の訓練を行う。

 06月:丞相となる。

 09月:新野に軍を進め、劉琮が降伏する。江陵に軍を進める。

 12月:赤壁で劉備と戦うが、敗れる。

■209年(建安14):55歳【東方鎮定】

 ショウ[言焦]に到達し、合肥に駐屯する。揚州に長吏を置く。

■210年(建安15):56歳【唯だ才のみ是を挙げよ】

 春  :唯才令を布告する。

 冬  :銅雀台を築く。

■211年(建安16):57歳【関中撃破】

 03月:鍾ヨウに漢中の張魯征伐を命じる。夏侯淵に鍾ヨウと合流するよう命じる。

 ※関中の馬超・韓遂・楊秋・李堪・成宜らが叛き、潼関に陣し、曹仁を派して対峙させる。

 07月:西方征討に赴き、潼関で馬超と対峙しつつ、徐晃・朱霊に黄河の西に陣を築かせる。

 黄河を渡り、渭水の南に陣を築き、賈ク[言羽]の計略を用いて馬超・韓遂を離間する。

 09月:関中諸将と会戦し、破る。成宜・李堪を斬り、馬超・韓遂は涼州へ走る。

 楊秋を下す。

■212年(建安17):58歳【国家への道】

 正月:拝謁時の名前の呼称をやめ、小走りをせず、帯剣の登殿を許される。

 10月:孫権を征討する。

■213年(建安18):59歳【魏公就任】

 正月:濡須口で孫権の都督公孫陽を破り、捕らえる。

 05月:魏公に任ぜられる。

 魏の社稷と宗廟を建立し、尚書・侍中・六卿を設ける。娘3人を献帝の貴人とする。

 ※馬超・テイ王千万が反逆し、夏侯淵に討伐を命じる。

■214年(建安19年):60歳【涼州平定】

 趙衢・尹奉らが馬超を討伐し、夏侯淵が韓遂・宋建を討伐する。

 07月:合肥に赴き、孫権を討伐する。

 11月:伏皇后の旧書簡が発覚し、兄弟他処刑される。

■215年(建安20年):61歳【武都山行千里】

 張魯征討に赴き、陽平で張魯の将・張衛、楊任を破り、巴・漢を平定する。

 08月:孫権が合肥を包囲し、張遼・李典に破らせる。

 10月:名号侯から五大夫までの爵位を定める。

■216年(建安21年):62歳【魏王就任】

 05月:魏王に任ぜられる。

■217年(建安22年):63歳【立太子】

 正月:居巣に駐屯し、孫権を濡須口に攻撃する。

 10月:曹丕を魏の太子とする。

■218年(建安23年):64歳【再び劉備】

 正月:吉本・韋晃・耿紀らが許で叛き、王必・厳匡が鎮圧する。

 曹洪が劉備の将・呉蘭を破り、張飛・馬超は関中に逃走する。

 04月:曹彰に代郡・上谷烏丸を討伐させる。

 09月:劉備征討に赴き、長安に到着する。

■219年(建安24年):65歳【関羽の影】

 正月:曹仁が宛で反乱を起こした侯音を破り、これを斬る。

 夏侯淵が劉備と戦い敗死し、陽平で劉備と対峙する。

 于禁を派遣し、曹仁の関羽征討を救援させる。于禁が破れ、徐晃を救援に赴かせる。

■220年(建安25年):66歳【薨去―天下尚未だ安定せず。葬畢れば、皆服を除け―】

 正月:孫権が関羽を破り、首を送ってよこす。

     洛陽にて崩御する。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


おわつた……。

ぜんぜん簡潔ではなくなってしまったような気がします……。

書いているうちに何をトピックとしていいのかわからず、ひとまず書いてしまったものが多いです。

何を目的するか不明なままだったので。

ん、これはこれでよし。

一応エンジニアなので、三国志の読み方と技術のつながりを思ったりします。


同一の人名がどの伝・紀に出てくるかわかってサマリがでるといいな、とか

地名だけハイライトして、そのサマリがつくりたいな、とか

キーワードを指定するとその年表が自動作成されないかな、とか

裴注の引用書のサマリ(どの伝にどの書が引かれているか)ができないかな、とか

とかとか。


既に三国志の全文(中華書局1959で)は下記のサイトに公開されてます。

テキスト検索もできるので便利。すばらしい。


▼三国志全文検索

http://www.seisaku.bz/sangokushi.html


全テキストのDL許可とかしてくれないだろうか……。

テキスト検索(全文検索)ってどんなアーキテクチャとアルゴリズムなんだろう……。

RDBしかいじったことないし、未知だ。

正史三国志読み始めて、約2ヶ月が経ちました。

今回は、これまでの、また今進めつつある「三国志の読み方」について書いてみます。


■いつ、どこで?

通勤電車内、が最も時間を確保できます。

会社まで片道2時間という小旅行。

今は技術書:三国志:睡眠時間を2:4:4くらいの割合で過ごしています。


■どのように?


【フェーズ1】本文(陳寿)のみ、全巻読み通す。

読み進めながら、買い進めながら、1ヶ月くらいで読み通しました。

※初めに書き忘れましたが、手にしているのはちくま学芸文庫版『正史三国志』(全8巻)です。

なぜか魏書3から読み始め、魏書4→魏書1→魏書2→蜀書→呉書1・2・3と読み進めました。


初めは本文の脇に〔一〕とかあるたびに、裴注に飛んで、

そこを読み終えると陳寿の本文に戻っていたのですが、

そのうち頁を行ったりきたりするのが面倒になって、本文だけ読むようにしました。


本文だけ読んで気付いたことは、陳寿の文章は確かに巷(?)で言うとおり、

要を得て、簡、そして力強く、小気味よいということ。

主役の曹操を描く武帝紀。

その冒頭はさぞかし祖先の由来やら何からがあるのだろうと思っていたところが、

さっくり4行(日本文にして)。

その他、これまで読んだどんな三国志本よりも、簡潔で分かりやすいと思った。


というよりも、これまでに触れたいかなる三国志本も、

種はこの陳寿の本文なのだから、太宗が最も要を得ているのは当たり前なのだ。

全ての源流はここにあり、ここにしかない。


ただ、陳寿の本文でも上奏やら献策やらはだいぶ読み飛ばしたところがある。

「そもそも帝王の業とは・・・」などと始まり、改行なしでぶっ通し3頁、とかやられると、

4時間くらいしか寝てない頭にはかなりツライ。


「意見を述べる時は、初めに結論を言って、その後それを支持する理由を事実に即して述べましょう」

などと教育を受けている現代人にとっては、彼らの意見陳述は、冗長で文飾が多く見え、

時に何が要旨なのか分からない。

じっくりこの陳述に向き合い、彼ら独特の陳述様式を考察するのは、ひとまず後にして、

最後まで読み通してみました。


【フェーズ2】本紀から列伝へ(裴注付で)

現在この段階。まぁ、この流れは当たり前なのですけれども。

フェーズ1を終えた後、何を思ったか、程イク伝をノートにまとめてみたものの、

わからない。

彼が、呂布のエン州反乱の際、3県を保持した、とあるのだが、

これがどれだけ危機だったのか、あるいはそうでないのか、どんな勢力関係の中でおこったことなのか、

彼の伝だけではさっぱりわからない。


こりゃ武帝紀(魏書・第一)を読むしかない。


ということで読みました。

(そして年表形式でノートをとってみました。意外と記事が多く、6ページにもなりました)


そうすると、武帝紀に出てくる諸群雄とも呼べる人たちの様子が知りたくなる。

ということでその次は彼らの物語。


董二袁劉伝(魏書・第六)

 →董卓・袁紹・袁術・劉表


呂布・臧洪伝(魏書・第七)

 →呂布・臧洪 (読む前、なぜ臧洪?という感じがする。読んだ後もする。)


二公孫陶四張伝(魏書・第八)

 →公孫サン・公孫度・陶謙・張繍・張燕・張魯・張楊


呉主伝(呉書・第二)

 →孫権 (曹操と関係する220年までの紀事だけ)


ここまで読むと大体、鼎立までの中原の様子が掴めてくる。

劉備はこれまでの三国志本でおなか一杯なのかどうか、あまり読む気がしなかったため、

今のところ読んでない。

やはり三国で、曹操の周辺・孫権の周辺・劉備の周辺・3カテゴリが作れるようで、

一応それぞれは独立して読めるような気がしている。


そして、武帝後。


文帝紀(魏書・第二)→禅譲劇を読むのがしんどい。そして曹操に比して何もしてない。

明帝紀(魏書・第三)→法家体質?始皇帝・漢武帝には放埓なところも似ている。

三少帝紀(魏書・第四)

 斉王・曹芳→魏の挽歌がはじまる。

 高貴郷公・曹髦→三国志の歴史書としての限界ギリギリがどこか、見える。

 陳留王・曹奐→運命へと進むのみ。


とくに高貴郷公は、魏晋交代を晋臣の陳寿がどこまで書けるのか、興味深い。

陳寿は筆を曲げていない。ただ、筆を措いた箇所は多い。

歴史とは、勝者のものだ、という言葉が、危うさとともにひしと感じられる。

しかし、真実などそんなに大事か?という反論もなりたつ。

こう答えよう。少なくとも、覆い隠されることで吾らはひとつ愚昧になる、と。


この魏の末路をたどるなかで気になるのは、なぜ魏は終わってしまったかということ。


司馬懿のクーデター・曹爽一族の敗死

王凌のクーデターと失敗

曹芳(+夏侯玄・李豊・張シュウ)のクーデターと失敗

カン丘倹の反乱

諸葛誕の反乱

曹髦(+王経)のクーデターと失敗

……


その中でやはり基点は曹爽と思われるので、

曹爽伝(魏書・諸夏侯曹伝第九)を読んでみた。


で、一通り、魏周りは読んだかなぁという感じなので、

次は呉の本紀→蜀の本紀→三国の列伝と読む予定。



さらっと書こうと思ったのに、なんだか長くなってしまった。。

特に理由はないが、ちくま学芸文庫版『正史 三国志3』から読み始めたため、

「程郭董劉蒋劉伝 第14」から始める。


末尾の陳寿の評によれば、

「才能・知略に優れていたが、

荀ユウ[ユウは「悠」のしたごころを除いたもの]ほどではない人たち」(意訳)

の伝。


■程イク伝メモ

○東阿県で県丞が反乱を起こしたとき、官吏や県民が言うことを聴かずに一言

 「馬鹿な県民どもとは事を相談するわけにはゆかぬ」

 さすが強情で聞こえた人だ。


○劉岱に公孫サンか袁紹か聞かれたくだり。

 昔は随分ぼんやりした理由で建策するなぁと思っていたが、

 実際働いてみると、こんな感じで仕事が進んで行ったりする。

 違和感があまり感じられなくなった。


○キン允を説得するくだり。

 見えていないことを見えるようにし、人を説得する。

 弁舌とはそういうものだ。


○太祖はよく笑う。


○故事がよく出てくる。やっぱり『史記』と『漢書』と『春秋』くらいは。


○恐ろしく先が見える。孫権と劉備が結ぶあたり。

 劉備をきちんと評価している。


○孫の程暁の伝。昔の上奏文てのはこの手の形なのか。

 李斯のと比べてみようか。