大停電の夜に という映画にみる男性、Jazz Barのマスターのことを以前に書いたことがありました。コメント欄には、載せてはおりませんが、自分に会いにBarを訪れた女性に言葉も交わさず、微笑むだけで、もとの生活に戻るように促すというものです。
このことが、愛情表現のひとつなのではと書いて、多くの批判を頂きました。どうしても、その心理がわからない とか、本当の愛情とは、そういうものではないとか、たくさんのご意見を頂きました。
なので、私もよくよく、考えて、もう1度、この映画を観てみました。
この映画には、女性が何人か、登場しますが、Barのマスターに関わる女性2人に注目すると面白いことに気がつきました。1人目は、
Barの前で、キャンドルを売る店を営業している女性です。Barのマスターに大停電の起こったことをきっかけにBarにキャンドルを持って現れます。素直に自分の意見をマスターにぶつける女性です。Barのマスターに好意を持っていることも素直に伝えているように私には、思えます。2人目は、Barのマスターが、待ち続けた女性です。彼女は、雪の降る大停電の夜にBarには現れます。店には入らず、たたずみます。Jazz Barのマスターは、彼女の為にベースで、思い出の曲を演奏しようとするのですが、それをやめて、にっこりと微笑むのです。それは、彼女が店の扉を開けて、入らずにたたずむ姿に迷いを見たからではないでしょうか。彼女がBarの扉を開けて、店に入ってきていたら、物語の展開は、変わっていたのではと思ってしまいます。
ここからは、想像ですが、彼女への

愛情は、恋よりも大きな人としての愛情に変化したのではないかと思えます。その為に彼女が自分のもとに訪れるように願をかけて、その日で、Barの閉店することにしていましたが、翌朝には、閉店するのはやめたと決めています。その彼女も朝には、家に戻るのですが、
Barに訪れた時には、持っていた赤い傘を何処かに置いてきたようで、もう、手にはしていません。また、お叱りを受けそうですが、
覚悟を決めて、その恋に飛び込んでいけたか?ということが、運命を変えていったような気がします。テーマとなるJazzの曲が、ビル エバンスの My Foolish Heart ですが、
Foolish とは、どんな辞書を見ても、愚かな とか、馬鹿馬鹿しいなどという日本語訳しか
出てきません。こんな文章を書いているひねくれた見方しかできないFoolishな者なのでしょうか。