東京・浅草寺の絵の制作、そして平穏無事の幸せへの感謝 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

 

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7月20日より東京浅草の「金龍山浅草寺・雷門」の絵の制作に取り掛かっていた。
前作の宇治の平等院・鳳凰堂の絵を自分でも驚く程の快調なペースで描き、(40日程かかると予測していたのを)僅か20日で完成させた事で、満足感と安心感で満たされたせいで気持ちが緩んでしまったのか、決して怠けたつもりは無いのだが、多数の雑用も重なって予想外に時間がかかり8月16日にやっと完成した。
而も此の絵はいつも完成度の高い余の作品としては珍しく、「雷門」の周囲のたたずまいを(故意に)薄塗の下絵で残す形を採った。
其の理由として、第一に余が現代的な建築物で構成されるたたずまいを、歴史的建造物と調和しないと見なして好まない事、第二に此の作品に此れ以上時間を費やせなかった事がある。
因みに余が当寺院を初めて参拝したのは、「長野オリンピック」の開催された1998年2月であった。
当時、余はオリンピック競技場の一つであった白馬村で、オーストリアの伝統競技"Einstöckiger Ski"(一本杖スキー)の選手達の為のドイツ語通訳として、同国Lilienfeld市と姉妹都市である新潟県・上越市の職員方と同行し、最後の行事である東京見物の際に参拝させて貰い、此の寺院の概要について通訳した次第である。
今思い起こしても、当時大変良い経験をさせて貰ったとしみじみ思うのである。
現在の「雷門」は東京浅草の象徴として、全国で知る人ぞ知る大変有名な建造物であるが、実は其の歴史は非常に浅く、初代の「雷門」が慶応元年(1865)に焼失した後、長らく仮設の門が存在し、昭和35年(1960)にやっと現在の「雷門」が鉄筋コンクリートで再建されたのである。
其の為の費用はパナソニック(松下電器産業)の創始者・松下幸之助氏が当寺院の本尊・浅草観音に病気治癒の祈願をして、其の御礼として寄進した物である。

8月17日より引き続き「浅草寺・全景」(仁王門、本堂、五重塔を含む)の絵を描き始めている。
思慮の結果、此の絵の元にする写真は、自分で撮影した各御堂の写真ではなく、大正8年(1919)に撮影された白黒写真を採用する事にした。
何故なら現在の「浅草寺」は、参拝者数でも全国の寺院の中で最上位に位置して、余りにも有名ではあるが、如何せん戦後に鉄筋コンクリートで再建された物であるので、どうしても京都、奈良、滋賀県にある古寺、名刹程の歴史的な重みが感じられない。
そこで余は意図的に「東京大空襲」(1945年)で焼失する以前の「浅草寺」を描いてみようと決断したのである。
100年近く前の写真ともなると、解像度が今日の写真程良くないので、自分で撮影した各御堂の写真を見比べて製作して行く事になる。
流石に当時の境内は現在の人口1300万人を超える巨大都市・東京とは全く別世界と思える程の「長閑さ」さえ感じられるのである。
ところが此の大正8年(1919)に撮影された白黒写真と現在の境内全景の写真を比べて見て、奇妙な事に気付いたのである。
と言うのは「五重塔」が現在は本堂の西側に立っているのに対し、大正時代の写真では本堂の東側に立っているのである!
「此れは如何なる事か?」と不思議に思い、「浅草寺」の歴史を調べて見た処、どうやら「五重塔」は元の「三重塔」が焼失を繰り返した後、慶安五年(1648)に本堂東側に建立され、前記の「東京大空襲」で焼失した後、昭和48年(1973)にかつて寛永八年(1631)以前に「三重塔」が存在したと推測される本堂西側に鉄筋コンクリートで再建されているのである。
昔のままで保存されていると思われがちな歴史的建造物も、長い歴史の中で幾度も変遷を繰り返していると云う事実を知るのは、大層興味深い重要な事柄である。

(此の作品はようやく11月16日に完成した。)

我が家の苗字「奥山」に因んで書くのだが、江戸時代に此の浅草寺の裏一帯の代表的な盛り場も「奥山」と称した。
ここでは数々の見世物小屋が並ぶと共に、軽業や居合抜き等の特異な芸を見せながら物を売る香具師の本拠にもなっていた。
かつての時代劇「桃太郎侍」(1976~1981年)の中に登場する「玉川一座」の軽業小屋が「浅草・奥山」にあると言う設定で何とも愉快に演出されている。

扨、平凡な事を書く様だが、我が館(実家)は2000年に其の半分を新築して今年で17年目になる。
新築当時、エアコン(×5)、冷蔵庫、IH、トイレ、等を同時に増設しており、今年になって経年による老朽化に伴い、其の中の4つを新調する事を余儀なくされてしまった。
中でも特にエアコン2台に関しては、既存の壁の中に内蔵されているパイプを再利用して、ホースが外に出ない様に取り付ける事が可能なのかどうか心配でならなかった。
何故なら我が館(実家)は余自らDeutscher Ritterorden(ドイツ騎士団)の城を手本とした"Backsteingotik"(レンガゴシック)様式でデザイン・設計しているので、其の壮麗な外観をエアコンのホースがはみ出す事よって台無しにされる事は我慢がならなかったからである。
しかし、家電販売店の職員の検査、見積もりによって其の心配は全く無く、エアコンと室外機を取り替えるだけで済ませられる事が分かって、心の中の黒雲が去った様に晴れ晴れとしている。
普段は「合理性」と「節約」を心掛けて生活しているのだが、もうここまで出費してしまうと、流石に開き直ってしまい、長年使用して来たパソコンの周辺機器や母上の自転車まで新調してしまった次第である。
其の時改めて思ったのは、日常生活に於いて平穏無事である事は、実は大層幸せであると言う事である。
人間は平穏無事な日常生活を送っていると、どうしても其れに慣れてしまい、其れが当たり前の事の様に思えて、感謝の気持ちを忘れがちになっている。
普段当然に存在する物事、及び普段世話になっている人に感謝出来る様になるだけでも、人生に於ける「幸福感」が高まるのである。

8月15日前後の時期には「第二次世界大戦終戦記念日」に因んで、毎年恒例の戦争の惨禍を伝える特別番組が放送される。
其れ等を見ても、いつもの事ではあるが、平和の有難味をつくづく思い知らされるのである。
又、戦時中に暗号解読官・陸軍少尉であった我が親父殿、我が母親方の祖母、戦時中から教職に就いていた我が小学校の時の担任・浜田先生、等から余は当時の話をよく聞かせて貰っていた。
戦爭末期に国内情勢が困窮、逼迫した時には、ドイツでは"Volksstürmer"(国民突撃隊) "Hitlerjugend"(ヒトラー青年団)等の軍人以外の民間人が見込み無き戦闘に参加させられていたし、同様に日本でも「一億国民総動員」だの「学徒出陣」と云った名目の下、民間人までもが絶望的な戦闘に送り込まれていたのである。
先の世界大戦で犠牲になった人達も、もし当時戦争さえ無かったら、各自銘々自分が本来望む道に進んで活躍出来ていたかも知れないのである。
そう思うと余は戦争の多くの犠牲者の方々に、常に哀悼の意を表さずにはいられないのである。
其れに引き換え余は平和な時代に「衣・食・住」全てに十分過ぎる程足りる家に生まれ、其の上自分が一番才能を生かす事が出来る「芸術家」、言わば道楽の如き仕事を公共事業として長年続け、其れで業績、名声、人気、地位、等を得て来られた事は、誠に最上の幸福であるとつくづく感じると同時に、心より有り難く思えるのである。
しかしながら「平穏無事な生活」と云う幸せは、油断、怠慢、無責任、又は強欲によって突然一気に崩壊してしまう事もある。
余は未だ其の様な経験こそ無いが、実際此の様な事態に陥った人の話や事件を何度も聞いているので、
「平穏無事な生活」と云う幸せを守る為、常日頃より堅実且つ几帳面に注意深く生活する様に心掛けているのである。

追伸:
9月3日、余は山陽町に天台宗・石井原山・千光寺が存在する事を知り、我が家から左程遠くないので自分一人で行ってみようと思って詳しい地図まで印刷して準備したのだが、何分余が自動車で長距離を走る習慣が無いので、念の為に同じ天台宗教区に属している我が家の菩提寺・成願寺住職で親友の甘露和尚に当寺院について尋ねてみた処、何と親切な事に余と我が母上共々現地へ連れて行ってくれると言われるのである。
翌日4日、早速甘露和尚の自動車に乗せてもらい、当寺院を参拝、撮影出来た。
其の後更に親切な事に、甘露和尚は引き続き、日蓮宗・勅命山・日応寺、そして天台宗・銘金山・金山寺にまで連れて行ってくれ、其の上昼食にまで招待してくれたのである。
ところが余は自動車の中で、自分が持ち出した家の玄関の鍵を無くしている事に気付いた。
「推測するにどうやら千光寺の仁王門を撮影する際、僕が迂闊にも田んぼの畦道で滑って転んだ時に落としたんでしょう。 同じ様にコピーした鍵が幾つもあるので別に構いません。」と甘露和尚にも話した。
ところが何と明くる日、甘露和尚はわざわざ余が落とした鍵を、余の推測通り千光寺の仁王門前の畦道で見つけて、余の留守の時我が母上に届けてくれたのであった。
余は彼の度重なる親切には感涙する程感謝して、心からの御礼を伝えておいた。
余は既に3件の寺院に連れて行ってくれた御礼として、京都の(青)楽焼の打ち出の小槌を進呈しておいたのだが、2度に渡り甘露和尚に世話になった故、2度目の謝礼として沖縄のゴザ焼の抹茶碗を持参した。
其の時は丁度本堂で他の檀家の法事の最中だったので、余は彼の弟殿に此の御礼の品を渡しておいた。
其の後、法事が終わると甘露和尚は我が家に高野山の胡麻豆腐と新鮮な沢山の卵を届けてくれたのである。
そして、「近い内に又(成願寺に)来て下さい。抹茶を御馳走します。」と言ってくれたのである。

仏教の理論に「十界」と云うのがあり、一番上から「如来」「菩薩」「縁覚」「声聞」「天界」「人間」「修羅」「畜生」「餓鬼」「地獄」とある。
これ等「十界」の各一界の中に「十界」全てが存在し(10x10=100)、更に「十如是」(じゅうにょぜ)即ち「如是相」「如是性」「如是体」「如是力」「如是作」、「如是因」、「如是縁」「如是果」「如是報」「本末」がかかって(100x10=1000)、最後に「三世」(過去、現在、未来)がかけられるので、(1000x3=3000)となる。
此れが我ら天台宗高祖「天台大師」こと智顗様の御提唱された理論「一念三千」である。
特に「人間界」には「十界」の全てが存在している事が如実に見て取れる。
余は我々が今生きている「人間界」に「生き仏」、Engel(天使)とも言える人物に何度も出会い、末永く御付き合いさせて頂いている。
さながら余にとって「人間界」の如来様が比叡山延暦寺の大僧正・小林隆彰猊下、菩薩様が我が母上で、Erzngel(大天使)が前のBerlin都議会議長で同市名誉市民 W.Mellwig様、そして天使Brandenburg/H市の大聖堂のCh.Radeke牧師である。
此れ等の御仁に余は我が人生に於ける最上の大願成就の為、此の上無き御恩、御親切を受け賜ったのである!
誠に余の今日までの芸術家としての成功、栄光は此の御方々の御恩、御親切に依って実現したのである!

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