山口高志 | ほぼ日刊ベースボール

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野球選手の熱い過去や意外な背景を主な切り口に、野球への熱い想いを綴ります。

山口高志
 




山口のプロ入団時の剛速球は、多くの強打者にも衝撃を与えたほど、重くて速かった。170センチという小さな体を最大限に使って投げ込む高めのストレートは「三日前から振らないと打てない」とまで形容されたという。その剛速球の素晴らしさを物語る伝説は多く「高めの直球には球審が目をつぶっていた」「日本シリーズで対戦した広島の山本浩二のバットが球と大きく離れて空を切っていた」「キャッチャーミットが破裂するような音を立てていた」「投げたときに右手の親指が左足に当たってひどい突き指をした」などなど。




常に150キロ以上の球を投げ、好調時には160キロ近い球を投げていたと言われている。山口の剛速球を目の当たりにした人々の中には「日本のプロ野球史上、最も速い球を投げていた」と断言する者は多い。ただ、残念なことにスピードガンがプロ野球に持ち込まれたのは、78年の広島が最初で、本格的に使われ始めたのは79年から。このとき、山口は、既に腰を痛めて全力投球できない状況に追い込まれていた。スピードガンがあと数年早く出ていれば……。山口は、日本で最初の160キロを投げた投手として名前を残していたかもしれない。




78年、ヤクルトとの日本シリーズに備えて打撃練習中、山口は、腰を痛めてしまう。ピッチングをすると激痛を伴うというもので、山口は、持ち前の剛速球を投げられなくなってしまった。79年の成績は1勝6セーブ。腰痛は回復に向かって行ったが、左アキレス腱を痛めるなど、調子を崩し、自慢の剛速球は戻らないままだった。山口は、軟投派として生き残ることを望まず、常に剛速球を取り戻すことに力を注いだ。しかし、その意欲とは裏腹に79年以降、1勝、1勝、0勝と低迷が続く。投手生命を賭けた82年には1勝を挙げたものの、ついに剛速球は戻らず、その年限りで現役を引退した。プロで剛速球を投げたのはわずか4年だったが、人々に強烈な記憶を残した野球人生であった。




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市立神港高校では3年時に春夏連続で甲子園に出場して活躍。関西大学に進んでからも関西六大学リーグで数々の記録を打ち立てる。大学卒業時にプロ入り拒否するも、ヤクルトが4位指名。ヤクルトには入団せず、社会人野球の松下電器に入って2年間活躍し、小野賞も受賞している。75年にドラフト1位で阪急へ入団。剛速球だけでプロの打者に対峙して1年目から12勝13敗1Sという成績を残し、阪急のリーグ優勝に大きく貢献。その年の新人王に選ばれる。さらに日本シリーズでは、広島を相手に豪快な投球を見せつけ、5試合に登板して1勝2セーブ。阪急が4勝無敗2分けでシリーズを制する原動力となり、シリーズMVPを獲得した。2年目にも12勝10敗9セーブと活躍を見せ、先発と抑えを両方こなせるエースとなった。77年にも10勝12敗11セーブという好成績を残して阪急の3年連続日本一に大きく貢献した。 

78年には13勝4敗14セーブと、主に抑えでフル回転し、26セーブポイントを挙げて最優秀救援投手のタイトルを獲得している。入団以来、4年連続2桁勝利を挙げるとともに、チームも4年連続リーグ優勝を果たし、順風満帆かに見えた。しかし、ヤクルトとの日本シリーズに備えて打撃練習中に腰を故障。そのため、阪急はヤクルトに敗れて日本シリーズ4連覇を逃した。翌79年、腰痛の影響からわずか1勝に終わってからは、本来の球威がなくなり、腰が治っても球威は戻らなかった。左アキレス腱痛にも悩まされていたという。結局、79年以降は3勝したにとどまり、82年限りで現役を引退。

小柄な体全体を使って投げる160キロ近い剛速球で打者を抑え、好調時の高めに伸びる直球は誰も打てなかった。球質も重く、日本プロ野球史上最速の球を投げていた、とも言われている。活躍したのはわずか4年であったが、腰痛がなければ、数々の記録を打ち立てていたに違いない。

通算成績(実働8年):50勝43敗44セーブ、防御率3.18。600奪三振。新人王(75)日本シリーズMVP1回(75)最優秀救援投手1回(78)