聖書は、思いわずらいについて、警告をする。

思いわずらいの危険性が、いかに現実的であるかについては、疑問の余地がない。

わたしも、教会の信者が、強烈な思いわずらいに至る場合を経験している。

そのお話を聞く限り、全く同情の念を禁じ得ないし、その心情はわかる。

それは、自分だけにかかわらず、自分の大切な愛する人に関わる課題である場合、尚一層思いわずらうのでしょう。

また、当然のことながら、自分自身を振り返ってみても、その思いわずらいの危険性に陥り、時に負けてきたこともあると言わざるをえない。

 

思いわずらいの力は、責任感の強い人に、特に、のしかかるかもしれない。

責任感は、時に自分以外の人への強い思いやりとなり、自己の範囲を明らかに超えたことへ及ぶ。

しかし、危険なのは、この思いわずらうこころが、私たちを支配し、統御する傾向があるということである。

その法則に縛られたまま、人生の大半を過ごす危険性がある。

イエスは、その力を重々ご存知ですから、何度も思いわずらうなと、警告なさる。

「何を食べようか、何を飲もうかかと、自分の命のことで思いわずらうな・・・」と。

 

イエスは、自ら100%人間となられ、私たちの属性を知られた。

私たちの弱さを知っている。

自分自身へのこだわりもご存知である。

しかし、イエスがその傾向を、やむをえないとはされない。

その思いを断ち切れとおっしゃる。

排除せよとおっしゃる。

目を私に向けよとおっしゃる。

世の雑事、困りごと、あるいは人生の大問題にぶち当たった時、私たちは、それにとらわれる。

と同時に、神を忘れる。

しかし、忘れてならないのは、神は、どんな時でも、いつもともにおられる、という事実である。

神は、私たちをはるかに超える責任感をお持ちの方である。

なぜなら、私たちをこの地に誕生させ、信者にさせたのは、神の意志によるものだから。

神は、神の愛と責任において、私たちを守るのである。

私たちの永遠のいのちを確保されているのは、神である。

だから、私たちは、全面的に神に心をゆだねる必要がある。

怠けるのとは違う。

悩まずに、神にすべてをゆだね、自分のなすべきことを、淡々と行うということです。

悩み思いわずらい始めた時、そう考えましょう。

ピリピ4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

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