昨日の礼拝メッセージは、「盲人バルデマイに学ぶ」でした。

録画機器の不調からUチューブアップしてませんでしたが、久しぶりにアップもしました。

https://www.youtube.com/watch?v=S08u-t8F0PM&t=10s

あらためて、マルコ10章のバルデマイを読むと、迫力が伝わってきます。

信仰者としての熱意です。

10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。

10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。

 

今日でこそ、障がい者や生活困窮者への最低限の社会福祉制度がある。

しかし、それらが何もない中での、盲人で物乞いという二重苦は、大変だったでしょう。

もちろん、見えない、字は読めない、知識もない、食べるものもない。

ないない尽くしの彼が、霊の目を持っていた。

神を知っていた。イエスをメシアと信じていた。

見える、字も読め、知識を持っている人が、霊の目を持っていない。

現代においても同じ。

私も56歳で、やっとイエスを神を信じた経験から、知識の延長線上からは、決して神には到達できないことを知っている。

神の霊的な世界は、聖霊の働き以外では、決して知ることはできないのだ。

私たちは、目によりこの世をよく知っている。

しかし、盲人バルデマイは、それを知らない。

しかし、霊の目が開かれていた。

もっと重要な神の現実を知っていた。

彼のすごいのは、48節にうかがわれる。

彼は、神があわれみの方であると知っていた。

人がどう思おうとも、たしなめようと、止めに入っても、それらを無視する。

 

神はわかってくださると信じ、一層求め叫び続ける。

私たちは、往々にして、人からつまずかされた、傷つけられたとか、言い訳をしがちになる。

人間関係を口実に、神との関係を妨げられた言い訳にすら、していないだろうか。

バルデマイの様に、ひたすら神に目を向け求めていれば良いのだ。

それを、イエスは求める。

自己の救いを熱心に求めるものにだけ、目を向ける。

 

10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。

10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 

神は、無限の愛をえこひいきなく注いでくださるが、受け手の私たちの信仰心によって、祝福の度合いが大きく違ってくるのだろう。

そして、自由になった彼は、イエスに従って生きていく。

バルデマイの信仰心はすごい。

私たちを祝福したくてしょうがない神。

それを求め、大胆に神に近づきましょう。

 

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