8月17日の礼拝説教は「聖書が教える人は死んだらどうなるか」でした。
聖句は、ルカ16署の19節からの、金持ちと貧しい人ラザロの話からです。
ラザロは、全身おできの人で、金持ちの門前で寝ていたと書いてある。
足がなえていたのかもしれない。
金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいと思っていたとも書いており、貧しく体の不具合もあり、まさに悲惨な状況だったのでしょう。
しかし、彼が天国に行く。
彼の内面は描かれていないが、天国に行ったという事実をもって、この世において、神との内面的接触が、あったのでしょう。
はた目から見ると、最悪な状況で、見た目も醜く、多くの人は、避けて通っていたのかもしれない。
そういう外見の中、ラザロのこころは、神に助けを求めていたのだろう。
人はだれも助けてくれない。
自分では、何もできない。
願うのは神だけ。
助けてくださいと。
唯一の希望は、神のみ。
しかし、神は状況を変えてはくださらない。
わずかな残飯だけは、神はくださり何とか生きてはいけた。
今日も命が与えられた。
感謝です。
しかし、神様、あなただけが頼りです。
あなたにより頼みます。
いのちがはてる時、私をあなたの身元に迎え入れてください。
・・・
こんな祈りが繰り返されたのではないだろうか。
地上では、肉体的には、悲惨な状況だったが、結果として、彼の祈りは応えられる。
彼の願いは、神に充分聞かれており、神はとても、ラザロをいつくしんでおられ、愛しておられ、彼をパラダイスに迎える。
しかもアブラハムのふところという特等席に。
地上の苦しみは、大変ではあったが、所詮、数十年の世界。
天国での永遠の平安に大逆転する。
黙示録にある通り、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(21:4)
神は、あわれみ深い神である。
神により頼む者に、神は大いなる祝福を与えてくださる。
一方、神を不要なものと考えていた金持ちは、この世をおう歌するが、永遠の時間を、地獄で苦しむことになる。
目の前の困っているラザロへの隣人愛は、全くなかったのだろう。
そういう者に、神の恵みは適用されない。
イエスは、ある意味、極端ともいえるたとえ話をもちいて、私たちを励ますとともに、警告も与えてくださる。
人生は、一回勝負。
神を求めて信じて生きるのか、そうしないのか。
神は、私たちの外見には関心がなく、私たちのこころしか見ていない。
私たちの死後の世界は、それで決まる。
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