イエスの山上の垂訓は、私たち信者に向けた重要な教えである。

一言一言がずしりとくるハードルの高いものであるが、イエスに似たものになることが、信者の最終目標なので、心してこれらを受け止めていく必要があるでしょう。

 

さて、その中の一つに、「あなた方は、世の光です(マタイ5:14)」がある。

いきなり、私たちは、世の光だと結論づけている。

クリスチャンとしての存在そのものが、世の光なのだという。

つまりは、イエスを信じたことは、神が宿った新しい人になった。

それは、神がなさったこと。

神自体が、光なので、その神が宿られた私たちは、同時に光となる。

 

そこまではとてもとても…とか、クリスチャンになったばかりなので…とか、思いがちになるが、事実は、違う。

信じると同時に、聖霊様が宿られた。

聖霊の宮になっている。

その聖霊の宮の中に、わたしが住まわせていただいている状態になっている。

実感はすぐにないかもしれない。

しかし、聖書にそう書いてあるのだから、それは何よりも真実で、そう信じなければならない。

実感は、あとから生じてくる。

ともかく、その特権にあずかった。

 

そして、イエス様は、次の通り、お命じになる。

マタイ5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 

世の光であることは、既成事実。

それからは、私たちがなすべきことの命令。

光を人々の前でかがやかせなさい。

光であるからには、良い行いをする。

そうすれば、未信者が、その良い行いを見て、「クリスチャンの信じているイエスそして父なる神はすごいな。本当の神が確かにいるんだ。」になるだろうとおっしゃる。

 

これが、クリスチャンとしての、神の証人としての唯一の重要な役割といっていい。

私たち自身が、良い行いをしていなければ、説得力はない。

いくらキリスト教の教理を伝えていても、私たちが裏腹な行いをしていれば、私たちを信用しないばかりか、神を信用しなくなる。

かといって、臆病になってもいけない。

私たちは、不完全な存在であり、不十分さはつきまとう。

それは、神も十分ご承知。

反省を重ねながら、聖霊様にゆだねながら、一歩一歩、表裏なく、良い行いができるようになりましょう。

 

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