自分自身を検討する、吟味するということは、あまり楽しくないことかもしれない。

つまり、自分の暗部や弱点や課題が見えてくるからである。

クリスチャンにとっても、あまり人気のあることではない。

むしろ、自分自身を励ます聖句、神の子としての確信を持てる聖句を繰り返し暗唱することを求めるでしょう。

当然のことながら、これは自分の神の子としてのアイデンティティーを確認し知るうえで、必要な習慣です。

特に、信仰歴がまだ浅い場合、とても必要なことです。

あるいは、人間は弱いので、信者には聖書を通じて、その再確認は重要なことです。

しかし、その一方で、成熟したクリスチャンになるために、自己吟味は欠かせないでしょう。

楽しい作業ではないが、必要なことです。

聖書には、そうしなさいと書いています。

2コリント

13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。

 

わたしも無信者だった若いころには、自己吟味、自己批判・・・などを繰り返した。

しかし、そこからは何も生まれてこなかった。

人生の意味も何も分からない。

つまり、そこに神がなかったので、今から思えば当然と言えば当然。

その空洞を埋めてくださるのは、神だけであるから。

それを教えていただいた神に感謝し、その特権にあずかった恵みに感謝あるのみ。

 

一方で、クリスチャンになってからは、人生の謎は埋められたものの、自分流のやり方が、色濃く反映する場合がある。

例えば、クリスチャンとしての自分流の信仰を信じている。

クリスチャンとしての自分の人生に生きがいを感じている。

つまり、キリストを信じ愛し、キリストに喜んでもらえる生き方をしているようで、自分のキリストとの接し方を、とても愛し満足し信じている場合がある。

これは、キリストを直接的に愛し信じているのとは、違っており、その微妙なずれに、気づいていない場合もある。

クリスチャン歴の長い人に、あるいは熱心な方に十分ありうるケースである。

わたしにも、そのリスクを感じたり、そうなっている場合もある。

 

クリスチャン生活は長い。

聖化の道のりは長い。

そのためにも、時々自己吟味を繰り返す必要がある。

神のレールにしっかりと乗っているのか。

信仰の正しい道を歩んでいるか

神を本当に愛しているのか

隣人を本当に愛しているのか・・・。

夏休みの今、そのことを考えていました。

 

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