今日のわたしの教会説教は、有名な「放蕩息子のたとえ」を予定しています。

このたとえ話は、父がテーマなのでしょう。

変わらぬ父の愛。

失われた放蕩息子の帰還に大喜びする父。

しっと深い、自己中心的な兄への父の愛。

対照的な兄弟に対して、変わらぬ父の愛。

つまり、御国の父の愛とは、そのような大きな深い愛なのでしょう。

 

弟が悔い改めて、帰ってくるときの父の様子。

ルカ15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

 

弟は今や、世間的には、価値のない人、どうしようもない人。

しかし、父は待ち続けていたのでしょう。

帰ってくるのを、遠くから毎日、探していたのでしょう。

父は、走り寄る。

ユダヤ社会では、老親が走り寄るのは、考えられない社会だったようです。

威厳をもってじっとしているのが、当たり前の世界。

ですから、イエスの話を聞いていたユダヤ人は、「おや?何か変だ。そこまでするのか」と思ったでしょう。

その後の、異常なほどの喜びと歓待。

 

私たちは、イエスを通じて、父なる神の御性質を知る。

御国の実態を垣間見る。

失われた子、つまり私たちが悔い改めて、父なる神に立ち返ることを、父は、人間的に考えるならば、異常なほどに喜ばれていることを知る。

「そこまで、喜ばれるのですか」という感じすらする。

ルカ15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。

 

神は、喜ぶのは当然だとおっしゃる。

しかも、神は、兄に形容される自己中心的なプライドの高い人をも愛している。

人に対して優しい気持ちが持てるように、思考の方向転換をするようにと。

エデンの園から追放された、私たち人類みんなの帰還を待ち望んでいる。

 

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