パウロは、信仰義認を主張する。
イエスが十字架上で、私たちの罪を贖ってくださったことにより、「信ずるものは救われる」、
イエスを信ずるだけでいいのだ、それで救われるのだという。
一方、ユダヤの民は、神から授けられ、大切にしてきた律法を、「パウロよ。お前は、律法の教えを無効にするつもりなのか、無視するのか。そんな簡単なことではない。とんでもない。」と攻撃する。
パウロは、信仰義認と律法との関係について、こう言う。
ローマ3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。
まことに、真実をとらえ、痛快である。
イエスが来られた目的は、律法を成就するためである。
その結果として、律法は、イエスにより成就され確立されたので、不要になり破棄されることになったという考え方である。
当然のことながら、神のお考えの核心は、永遠不変である。
さらに鮮明になり、福音の心臓部に位置する。
一つは、神を愛すること。
二つ目は、隣人を自分自身のように愛することである。
愛の戒めである。
それは、律法時代も中核に据えられていたことであり、イエスが、最重要の戒めとして、私たちが命じられていることである。
何もかわらない。
福音に包含された律法のかなめの部分である。
従って、律法が、成就され確立された福音に生きる私たちは、神への愛と隣人愛のある信仰に生きてこそ、クリスチャンである。
そういう意味で、ヤコブが、こういうのは、もっともである。
ヤコブ2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
隣人愛のないキリスト教は、信仰とはいえない。
キリスト信仰は、程度の差はあれ、必ず隣人愛がつきまとうはずである。
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