キリストの信仰者は、キリストともに死に、キリストともに新しく生まれた。

そのように、パウロは言う。

ローマ6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

 

私たちは、実際に、十字架上で、イエスのように、刺し通され、苦しみを受け、死んだわけではない。

イエスは、私たちの代わりに、それを荷ってくださり、私たちの古い人を、イエスとともに十字架につけてくださった。

滅ぼしてくださった。

罪の体が滅び、罪の力から解放された。

 

パウロは、その後の聖句で「それを知りなさい、認めなさい」と、熱く重ねて語る。

私たちは、時々、そう思い込めない課題を持ってはいないか。

つまり、自分の感覚に左右され、聖書に書かれている事を、信用しきれていない。

信仰が足りないのである。

つまり時として「自分の思い、感情>聖書の真理」に陥る傾向がある。

戒めなければならない。

イエスは、荒野で悪魔の試みを受けた時、「み言葉にこう書いてある」とおっしゃられた。

イエスは、私たちに手本を示されている。

 

パウロは、こう言った。

ガラテヤ2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 

真実は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」ことでしょう。

パウロは、18節から、突如、主語をわたしたちから、わたしに変えている。

パウロ自身の思いを熱く込めたのでしょう。

わたしも、いつもそう思い込めるように、信仰を高めて行く必要がある。

 

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