山上の垂訓は、神の国における現実であり常識です。

 

マタイ5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

5:5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。

5:6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。

5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。

5:8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。

5:9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。

5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。

5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。

 

人間観が、この世の常識や価値観とは、まるで違います。

それだけ、この世は、この世の神に支配され、それに私たちは慣れっこになっている。

私たちは、金、名誉等などへの欲に引き寄せられ、自己中心的な思いにとらわれる。

自己実現をはかることが、より高度なレベルの自然な欲求と教育され、それに向けての努力を行う。

体育会的な努力、知的好奇心の探求・・・。

それらが尊いものと思わされてきました。

ヒューマニズムの世界感も同じ。

あくまで、自己中心。人間中心。

しかし、神の国は違う。

神が中心。

たとえば、心の貧しい者は、幸いとイエスはおっしゃる。

心の貧しい人とは、どういう人なのでしょか。

それは、霊的に極貧状態。

神との関係なしでは、一日も自力では生きていけないほどの、絶対的な自己破産状態。

神に全面的により頼んでいる状態。

 

悲しむ者は幸いとイエスはおっしゃる。

最上級の悲嘆を知っている人。

神の存在なしには、自分がいかにみじめな存在かを知っている人。

 

おそらく、このような人は、この世の常識に慣れている人には、困った存在、空気を読めない人、生産的でない人・・・なのかもしれない。

クリスチャンの中でも、浮いた存在に思われるかもしれない。

 

私は、いずれ山上の垂訓を説教しようという願いがあります。

しかし、まずは、自分が、本当にそのように思っているのか、その検証が必要なのでしょう。

どのレベルで、自分は確信しているのか、あるいは残念ながら自分はそこに至っていないのか。

つまりは、イエスの山上の垂訓は、自分の一生の課題なのでしょう。

 

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