明日の説教テーマは、「神の招きと約束」です。

イエスは、「子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、誰も父を知るものはありません。(マタイ11:27)」と言っています。

すると、イエスはだれを父に知らせようとするのか、ということになる。

そして誰をイエスは招くのか。

イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」とおっしゃってくださる。

招かれている人、導かれている人のなんと幸いなことか。

イエスが心に定め、招き、それに応じた人たちのなんと幸いなことか。

 

イエスは、「人類よ、みな私のところに来なさい」とは、少なくとも呼び掛けていない。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」といっている。

つまり、「疲れている、重荷を負っている」と思っている人、苦しんでいる人と読める。

そのように思っていない人は、「自分はうまくいっている。それなりに幸せである。自力で何とかなる。神は不要である。・・・」であるのでしょう。

そのような方を、神は招致していない。

しかし、神は本来、「あなたの認識は正しくない。自分の実情、罪を知り、考え方の方向転換をしなさい。それを切望している」という意味で、招いているのだろう。

 

私は、自分も「疲れている、重荷を負っている」という自覚が、若い時からあったことが、結果的に、その経験が幸いだったと思っています。

それを自力で何とか乗り越えようとしましたが、何ともならない。

結果、人生は不条理、不可解であると悟る。

その自覚が、幸いだったと思います。

パウロが「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)」は、パウロの、不条理を知った人の叫びです。

そして私は、50代になってから、神を研究しようとして、聖書を読むことになるのですが、それに、人生の謎、人生の意味、すべてが書かれてあり、神を知る。

しかも、これら人生のプロセスのすべてが、神の御計画であることを知る。

したがって、私の召しは、私が体験した「疲れている、重荷を負っている」方々への救いの道を提示する事だと考えています。

 

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