聖書に出てくる「小さい者」は、キリストのメッセージの中核をなすものだろう。
神の御性質、つまり愛、あられみをあらわされる場合、「小さい者」が語られる。
マタイ25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
マタイ18:14
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
私たちは、罪の性質を持っているため、自己中心性を一生涯持ち続ける。
その枝はらい、さらには、幹を切り落として、イエスに似たものになっていく仕事が与えられている。
それは、高い目標であるが、喜びであり、私たちを平安に導くものである。
そのことが、できている尺度として、良きサマリア人のたとえに示される隣人愛の実行がある。
また、日常における一見「小さい者」と思われるような人への私たちの心の有りようで試されるのだろう。
持っていないようで、心のどこかで差別や偏見、あるいは競争意識がないだろうか。
いずれも、自己保身、自己中心の性質であり、まともなクリスチャンになったと思い始めた時が、危ないかもしれない。
「自分を低くする者が、天の御国で一番偉いのです。」(マタイ18.4)
まさに、自分を小さき者と認識できているだろうか。
私の一生の課題である。
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