昨日は、教会初日でした。
思いがけない祝福をたくさん神からいただきました。
参加した方々も、喜んで下さり感謝な一日でした。
説教もほめてくださり、感謝なことです。
「教会の雰囲気がよかった」と思っていただいたのもうれしいことでした。
だれもが気兼ねなく参加できる敷居の低い教会を目指しています。
例えば献金についてです。
義務的献金(什一献金等)はなく、自由献金として献金箱を置いているだけです。
什一献金に躓く方もいます。
什一献金しなければ、罰が当たるように感じている人、神様から祝福が得られないと思っている人、教会が推奨していることに従わねばならないと思っている人・・・など、いらっしゃいますが、心配はご無用です。
献金は、あくまで神とあなたとのことです。
「それは教会のためではなく、あなたのためなんだ、あなたが祝福されるためなんだ。」と、いう説明がなされる場合もあります。
それはそうなので、当然の聖書的教えなのですが、問題は、教会での使われ方なのでしょう。
教会の責任は大きい。
私たちが、神にすべてをささげ、犠牲をいとわないことは、とても大切なことです。
私たちのお金も時間も体も、すべては神のものです。
神からの預かり物を、神にささげることは、とても聖書的なことで、神が望むことです。
しかしささげる、献金するのは、何のためでしょうか。
神は、何を願っているでしょうか。
教会が献金を集め、教会の運営費、人件費に使われるのを、否定するものではありませんが、それだけのためであるなら、聖書的とはいえないでしょう。
結果的に、内輪の集まりの運営費を持ち寄っている関係だけになりかねない。
本来の献金は、より困っている人、より貧しい人のためであり、また神の国を広げるために働いている人の衣食を補うためだろう。
それが神の願いと思う。
それを、個人の自由意思で献金する。
パウロが、献金について力説していることは、本来、そのようなことだろう。
2コリント9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
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