日曜日を聖日とし、その礼拝を「聖日礼拝」と呼ぶことが、習慣化している。

しかし、その日を絶対化して、さらには、10時(10時半)から参加できないことは、クリスチャンとして問題があるかのようなとらえ方をする人は、少なくない。

日曜日→聖日→安息日→礼拝死守という律法主義的傾向である。

新約の時代に入り、主が復活された週の初めの日に合同礼拝をするようになったのは、大切な歴史的事実ではあるが、一つの大切な習慣であり、日曜日の10時から礼拝することの、聖書的根拠はない。

聖書では、その曜日や時間が、他よりも多くの神聖さを持つ聖日であるとは、みなしていない。

聖書的な教えは、集まって礼拝することである。

これは、普遍的に守るべきことで、その他は周辺的なことである。

 

イエスもおっしゃったように、安息日の為に人があるのではなく、人の為に安息日がある。

初代教会は、日の出のころか、夕方に集まっていたようであり、それぞれの地域的、文化的条件を考慮し、教会が工夫すべきことであり、「クリスチャンがその日、その時に集まるべきだ」

「また、その日には、教会の奉仕に参加しなければならない」となると、嫌気がさしてくるのではないか。

ただでさえ、日本人は、仕事等で疲れている中で、本来休むべき安息の日が、一番忙しい日になりかねない。

日本人は、まじめで几帳面な人が多い。

それに耐えうる、立派なクリスチャンだけが、生き残れる場に、教会がなりかねない。

 

日本のクリスチャン人口は、1%で、教会礼拝出席者は、0.2%と言われている。

5人に4人が、教会に定着しない。

絶対に変わらない福音の本質は、死守しなければならないが、教会のあり方とかの周辺的な文化的なことについては、そろそろ、日本人にあったスタイルを考えるべきなのだろう。

また、そのように、柔軟に変わりつつある動きに、賛同します。

 

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