私たちは、聖書を読んで、パリサイ人の律法主義的な姿勢を批判的に見る。

しかし、私たちにも、パリサイ人と同様な傾向があるようだ。

キリストにより、福音がもたらされたが、それを受けた私たちが、いろいろな教理や神学や制度あるいは、教会における礼拝様式、ルールなど、考え行なってきた。

それはそれで、重要なことではあるが、あくまで福音の本質に比べて、周辺的な時代的な文化的なもので、絶対普遍的ではないはずである。

絶対普遍的なものは、十字架、復活、聖霊降臨、信仰による救い、である。

それ以外のものは、相対的なものであり、変化しうるものであると考えるべきではないか。

私たちの教理や取り決めを絶対的なものと、主張する方々がいる。

残念なことである。

神学、教理、はては教会運営、礼拝日、教職者と信徒、献金・・・について、これらの自らのやり方を、とても重要なこととして、絶対化しようとする。

まさに、パリサイ的だ。

聖書解釈、神学も人や時代や文化によって多様で、まさに人間的な分野なのだ。

「私たちは、聖書をうけて、このような考え方に立ち行なうこととするが、絶対普遍的なものではない。福音の真理は、絶対普遍的なものとして、守っていかなければならないが、その他のことは周辺的、時代的、文化的なものととらえる必要がある。

したがって、違う考え方ややり方を取っている他団体や他者には、お互いに柔軟で寛容でなくてはならない。」と考えたいものです。

守るべきは、神から与えられた福音の真理であり、それこそ命をかけて、守っていかなければならない。

その他は、相対的なものであり、寛容の精神で臨みたいものです。

 

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