ローマ書は、キリスト教の真髄である信仰義認を、論理的に説明してくれる。
神の為と思って、キリスト者を迫害していたパウロが、イエスによって、自らが神を迫害するもの、罪人そのものであることを知る。
5章6節~9節
5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
罪は、アダムから引き継いだ、私たちの性質であり、自力治癒できないウイルス感染者である。
しかし、パウロが、そうであったように、私たちも、自分が罪人であることに、気づかずに生きてきた。
そして、罪の霊的性質は、自己中心そのものであり、神に反逆するものである。
私たちは、加害者であり、神は被害者である。
神は、被害者であるにも関わらず、罪の何たるかも知らずに、神に逆らい続けている加害者である人類を救おうとする。
そして、被害者が、加害者のために犠牲を提供する。
人間的には、考えられない和解の形態。
罪人の性質を謳歌し、あつかましく神に反逆し、謝罪もせず、反省もしていない段階で、被害者である神が、手を指しだす。
キリストの死である。
そこに、神の人へのあわれみによる愛を、知ることになる。
パウロは、自分がまったく想定していなかった神の愛の深さに驚愕しただろう。
私たちも同じである。
度し難いほどの神の覚悟の上での愛と行動。
だから、それを信じる信仰によって、神から義と認められ、神の怒りから救われのは、当然なのでしょう。
あとは、その神の愛を伝えていくことが、先に救われた元罪人の役割なのでしょう。
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