詩篇の3分の1は、嘆きが書かれている。
それだけ、生きるという事は、つらい。
苦しいこともある。
思い通りに行かない。
思いがけない不幸が襲うこともある。
大きな悩みは人間関係にあるのだろう。
裏切りに遭うこともあるだろう。
嘆くのは、嘆いてもよいのだろう。
しかし、嘆きが自己憐憫に移行してはいけないと思う。
つまり、自分が何と、かわいそうだろうと、思ってはいけないだろう。
そこに救いはない。
そこに陥る人をよく見てきた。
大変なことはわかる。
本人の状況を知り、大変なことだと、わたしも同情する。哀れむ。
しかし、本人は、その状況に、自分を哀れんではいけないだろう。
一つのわなである。
そこに、出口はない。
よい展開は生まれない。
だから、思い切り嘆くのはよいだろう。
しかし、嘆く唯一の相手は、神であるイエス様と聖霊様しかないだろう。
すべてをご存知なのだから。
状況のすべてと、あなたのすべてをご存知なのだから。
そこに解決がある。
確かな出口がある。
クリスチャンは、幸せである。
感謝な事である。
嘆きを受け止めてくださる方がいるということ。
その方は全能者であること。
しかも、わたしに嘆けとおっしゃり、悩みを重荷をわたしにあずけなさいと、命じてくださる。
ルターは、彼の宗教改革が、ののしられ、悪魔呼ばわりされ、時にはすっかり滅入るほど、彼の苦悩は、大変だったといわれている。
しかし、助け、避けどころである神を、しっかり持っていた。
彼の愛称詩篇といわれる46章
46:1 神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
46:2 それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。
46:3 たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。セラ
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自己憐憫