イエスは、私達の見本で、私達がイエスに似たものになるように、求められている。
そういう中で、マルコ6章にこのような光景がある。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
弟子も含め、多忙で、休息が必要な状況だった。
しかし、イエスは、大勢の群集をみて、飼い主のいない羊のような有様を深くあわれむ。
イエスもとても疲れていたはずである。
しかし失われた民を見ると、とても可哀想に思う。
そうなのだろう。
神の真理を聞いていない多くの民が目の前にいる。
すると、教えることが優先する。
自分はその為にこの世に来た。
人を愛する。自分の体調を考えない。
と同じことが、次に書かれている。
五つのパンと二匹の魚から、男だけで5千人が食べた奇跡の後である。
6:45 それからすぐに、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、先に向こう岸のベツサイダに行かせ、ご自分は、その間に群衆を解散させておられた。
6:46 それから、群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。
普通は、えらくなると、群集を解散させる役目は、部下である。弟子である。
リーダーは、まず船にのりこみ、休み、「あとは頼む」となるはずである。
それが、逆なのである。
自ら解散させる。
別れを告げる。
そして、一人で祈る為、山に向かう。
解散と別れ、そして天の父に祈る。
いずれも重要だったのだろう。
イエスの優先順位は、私達とは違う。
こういう姿勢をもつ方は、まれにいるだろう。
しかし、きわめて少なく、常時とはならないだろう。
私たちの心根を考えさせられる。
イエスは、それだけ、いつも人を愛し、いつも父なる神を愛している。
そこには、自分はない。
本当にすごいお方である。
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