マルコ5章18節から、悪霊、すなわちレギオンを宿していた人が、イエスによって、悪霊が出ていった後のことが、書かれている。
:18 それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。
5:19 しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」
5:20 そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた。
彼は、お供をしたいと願う。
願ったというのは、語彙的にはとても強い願いである。
本人とすれば、当然だろう。
イエスによって、とても大きな苦しみから解放されたのである。
その救い主のお供をしたいと願うのは、とても自然の願いであろう。
しかし、イエスは、それをお許しにならなかった。
そして、主がなされた大きな事を、あなたの家、家族に知らせよと命じる。
許さなかった理由は、わからない。
しかし、神があなたになさったことを、知らせることがあなたの役割だといったのだろう。
あなたには、わたしの証人としての役割があると。
私達も、私達の願いがある。
どう考えても、こうしたほうがいいと、自己判断する場合がある。
しかし、神のご計画は、私達の思いと違う場合がある。
当然のことながら、神のご意思に従う必要がある。
それは、私が願うことよりもよい計画であろので。
また、私の思いが強すぎて、その思いのまま、実行する場合もある。
しかし、この場合、いずれうまくいかなくなる。
神が、遮断なさる。
神のご計画が変わらない。
それで、やっと、神の御心でなかったと知る事になる。
その間、ある意味、無駄な時間を過ごしたことになる。
私たちが変わる必要がある。
人によっては、私の願いを祈り続ける人がいる。
願いが、かなわなくとも、祈り続ける。
神の私に対する御計画は、変わらないので、極端いうと、一生無駄な時間を過ごすかもしれない。
神は、わたしに難しいことを、要求していないかもしれない。
平凡に思えることを、とても身近なことを、望んでおられるかもしれない。
わたしの特性に応じた大切な役割がある。
神は、それぞれにそれぞれの役割を望んでおられる。
自分の思いではなく、神の御心をたずねる謙虚さが、とても重要なのだろう。
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