神からの召しということを考えてみる。

召しは、神に選ばれ,呼び出され、救われるということが、一つのもともとの意味。

もうひとつは、呼び出されることによる、新しい使命ということ。

なので、自分の本当の召しは何かとクリスチャンは考える。

考え続ける人がいる。

今の自分は、本来の召しの状態ではない。

もっと、違う召しがあるはずだ。

それを、神に求め続ける。

私をそれに導き、私をお使いくださいと。

しかし、そうこうしているうちに、年をとってしまう。

まずは、今の置かれている場所で、成すべき事を、誠実に、行なうことではないか。

神は、能力や効率性にあまり興味がない。

大事なことは、純粋さ、正直さとか、忠実だろう。

神とともに歩んでいるかどうか。

厨房での皿洗いを忠実に務めた、ブラザー・ローレンスこそが、私達のお手本なのだろう。

この世的には、あまり価値のなさそうに見える仕事でも、そう思うのは、私達人間の見栄にすぎなく、神の目線は、まったく違う。

よく、フルタイム献身という言い方で、教会の職務である牧師等へ就くことを、立派なことであるかのような空気があるが、そうではないと思う。

召しに優越はない。

 

障がい者に、神にとっての大切な召しを感じるときがある。

この世は、能力や効率性を求める。

この世的な尺度では、点数が低いかもしれない。

しかし、例えば、純粋である、悪いことはしない、正直などの面で、私たちを、はるかに上回っている場合がある。

その人しかない、とても良い特性がある。

神の視点からは、こういう人のほうが、はるかにすばらしいのだ。

そういう彼らに、わたしは影響を大きく受ける。

頭の良い人が、時々犯す、不純な、人を平気でごまかす、不正直な言行不一致さには、辟易(へきえき)する時がある。

神は、嘆いているだろう。

それに比べ、神にとって、例えば障がい者(児)の何と、かわいらしいことか。

この世の価値観を恐れてはいけない。

命を握っている神を恐れあがめよう。

神の視点で、神とともに、私達の仕事や役割を果たしていくことが、私達の召しなのだろう。

 

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