イエス様は、時々怒る。
現代風にいうと、切れたように怒りちらす。
21:12 それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」
状況がわからない人からは、「乱暴だ、横暴だ、何様のつもりだ、常識をわきまえろ、暴力はいけない、やり方がよくない・・・」と思うだろう。
寛容さ、平和がない。
そこには、怒り、憤りそのものである。
なぜ、イエス様は、そうされたのか。
すこし、やりすぎではと、私も思っていたが、専門家の次のような解釈で、理解がついた。
業者と神殿でのヤミ的結合の背景があったからという解釈である。
つまり、ささげ物をささげる場としての神殿が、商売の場になっている。
傷のない検査済みのものは、20倍の高値で売られていたようである。
信徒のささげる必然性に漬け込んだ商売の場。
つまり、適正でない取引、それは強盗行為であり、そういう場に、神殿を宗教関係者はしており、堕落している。
・・・といったことへの怒り、祭儀制度の本来の意味を逸脱した状況への、神としての、責任者としての、怒り爆発といったところなのだろう。
言っていることと、やっていることが、まったく違う。
偽善のきわみ。
祭儀制度の自らによる終焉を告げていたのかもしれない。
私達も反省しなければならない。
神の宮は、今は、私になっている。
神は、私の中に住まわれている。
私は、神の神殿である。
聖書に書いてある通りである。
聖霊を悲しませてはいけない。
私をきれいに整える必要がある。
神が住まわれるにふさわしい状態になるように、整えていく必要がある。
2000年前に、イエス様が怒られたように、言行不一致、形骸化のきわみは、最低限、避けなければならない。
私達も教会も。
私たちは、まともな、よき信者になっていくのみ。
聖霊様に助けていただきながら。
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