旧約聖書には、私達の性質のありのままの姿が、映し出されているという面で、参考になる。

今、通読で創世記のヤコブと妻レアとラケルのところを読んでいる。

レアは、ヤコブに愛されていない。それに神は「主はレアがきらわれているのをご覧になって」応える。子どもが4人生まれる。

神は、人から拒絶されている孤独な人に応える場合がある。

一方、ラケルには、子どもが生まれない。

30:1 ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見て、姉を嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死んでしまいます。」

 

ラケルは、無理な注文をヤコブに言う。

ラケルのいらだちは、わからないわけではないが、無理な注文である。

わたしは、仕事柄、いろいろと悩み相談を受ける。

その根源は、自分自身への強い思いである。

つまり、人間には、願望がある。

それは、自分の欲望である。

しかし、思い通りにならない。

その不満を、関係者にぶつける。

あなたのせいだと。

環境のせいだと。

自己憐憫。

自己中心的な思い。

いつまでも絶えない不十分感。

私達も気をつけよう。

今のままで充分だと思い、感謝しよう。

私達には、神がともにいらっしゃる。

それで、充分である。

充分すぎるのである。

神がともにいるから充分だと思わない限り、人は幸せにはなれないのだろう。

 

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