聖書での人間観、とくにクリスチャンになった人への神の認識は、すばらしい。
エペソ書は、教会論であるが、同時に「キリスト者は、どういうものとされているか」が、取り扱われている。
1章からこう書かれる。
1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
1:2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、私たちをもれなく、聖徒とよばれる。
「私なんか、とてもとても、そうでないです・・・」という言い方は、神の認識とは違う。
つまり、神はわたしをそうみなしている、その神の認識を否定することになるので、まずは、「私は聖徒である」と必要があるのであろう。
聖書に、私達は既に清くされているのだから。
また、天にあるすべての霊的祝福をもって、祝福してくれたとある。
つまり、すべてをもって、全力で、霊的祝福をいただいた。
全能の神が、すべての霊的祝福をもって、のぞんでくれている。
何という特権だろう。
また、世界の基の置かれる前から、キリストにあって選んでいただいている。
この聖句は、本当かなと正直思うところではあるが、聖書に書いてあるので、そうなのである。
つまり、現在の理論物理上で、ビックバンがおきたのが、138億年前といわれている。
そうだとすると、少なくとも、138億年以上前から、イエスによって、選ばれていることになる。
なんとなく選んだのではなく、愛をもって定めたと書いてある。
私達は、そういう存在なのである。
しかし、だれが選ばれているかは、わからない。
聖書では、すべての人が、神に招かれている。
それに応じる人が、「選ばれた人」になる。
選ばれた人になろう。
そして、選ばれた人は、自分は、聖徒であり、祝福されており、神からとても愛されている存在だと、認識しよう。
そう思っていない人は、考え方を転換しよう。
「私たちは、神の作品である」と書かれてある。(2章10節)
原語では、芸術作品、傑作の意味がある。
私達は、神の芸術作品、傑作である。
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