中国宣教の先駆者ハドソン・テーラーは、とても神にもちいられた方である。

彼は聖書の雅歌を、とても愛したようだ。

多くの聖書の中から、唯一、雅歌の注解書を書いた。

多くの注解書は、雅歌を「愛の書」「恋愛歌」としているが、彼は、雅歌に出てくる王をイエスとみなし、娘をわたしととらえる。

愛の書、恋愛歌だけでは、聖書に選ばれるだろうか。

ハドソン・テーラーの洞察は、とても魅力的で、そうだろうと私は思う。

というのも、そもそも、究極的には、キリストを受け入れた人は、イエスが花婿で、私達は花嫁の関係となるからだ。

黙示録19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。

19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」

 

そう考えると、雅歌は、神とわたしのとてつもない相思相愛の賛歌である。

神のわたしへの愛は、尋常でない。

娘はこう言う。

7:10 私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。

 

わたしは、イエスのものである。

イエスは、わたしを恋い慕っている。

神の私達への愛は、とてつもない。

人への愛情は、限りなく深い。

そのことを覚え、そして、人に伝えていかねばならないと思う。

 

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