私達は、罪の原点を聖書から思い出す必要があるのだろう。
神が、唯一、これはしてはいけないということをしてしまった。
罪をおかしてはじめて、背負った罪の重さを知る。
「なんてことをしてしまったのか」と。
神は「あなたは、いったいなんということをしたのか」という。
アダムにとって、思いがけないものだっただろう。
始めての罪の意識。
「やってはいけないことをしてしまった。」
罪が、彼を恐れさせる。
神から隠れる。
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
その恐ろしさへの対応は、2通りあるのだろう。
それを自分のせいにするのか。
あるいは、他者のせいにするのか。
自分の間違いを認めるのか、認めないのか。
結局、アダムはこう言った。
創世記3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
神のせい、妻のせいにしてしまう。
罪の性質だ。
「神様、あなたが、この女をわたしのそばに置かれたのです。
わたしは、お願いしたのではなく、あなたがそうしたのです。
そして、この女が、わたしにくれたのです。
わたしが、最初に食べたのではなく、私にくれたので、私は食べたのです。
つまり、そもそも私の責任ではないのです・・・」
アダムは、私達のモデルである。
罪の性質が、私達に及んでいる。
私達も、自分の罪をできるだけ、認めたくない。
間違いを認めたくない。
親、妻、他人、環境のせいにしてしまう傾向がある。
あるいは、神のせいにする。
罪の性質は悪。
人間の性質は悪なのである。
そのことを、聖書を通じて、よく踏まえる必要ある。
また、そんな人間の身代わりに死んでくださったイエスと、それをご計画くださった父なる神に、感謝し、賛美するしかない。
あとは、神とともに生きるだけ。
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