伝道の基本として、相手に合わせるという事がいわれている。

その達人が、パウロだったのだろう。

その事をこう書いてある。

1コリント9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。

9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになり・・・・

9:22 ・・・すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

9:23 私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。

 

それは、福音の為であり、自分も福音の恵みともに受けるためと言っている。

その為には、競技者に例え、自分のからだを打ちたたいて、自分をその目的に従わせると表現しています。

それは、自分自身が、失格者にならないようにと。

真剣さが、伝わってくる。

パウロレベルには、及ばない我々ではあるが、我々も、イエスの証人としての役割を果たしていきたいものである。

その為にも、パウロも言っているように、失格者にならないように、留意しなければならない。

 

クリスチャンとしての生き方が、いつの日にか、表面的に、形だけのものになり、形だけの祈り、心のこもっていない行い、隣人愛になってはいないだろうか。

つまり、信仰生活が、マンネリ化していないだろうか。

そういうリスクはたえずある。

福音を伝え、福音の恵みを十分に受けるには、神様からの充電をたえず受けておく必要があるだろう。

確かな信仰に立っているか、自分自身をためし、吟味する(2コリ13.5)姿勢が、重要なのだろう。

 

ダンサーは、練習を一日休むと、もとに戻すのに3日かかるという。

ピアニストも、一日休むと、自分のレベルダウンがすぐにわかるという。

いずれも、観客にはわからないまでも、自分はごまかせない。

やはり、自分の事は、自分がよくわかっている。

自己チェックは欠かせない。

緩むことのないよう、朝のデボーション、聖書通読は、基本だろう。

 

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