偶像崇拝の罪は、根深い。
旧約の世界では、特にバアル信仰による罪により、民の心は神を離れ、堕落していく。
新約の今も、偶像崇拝は、蔓延しているのだろう。
いわゆる目に見える神を模した像とは限らず、その他の偶像が大きいのだろう。
それは、人であり、金でもある。
ある方が、有名な海外のミュージシャンが死んだことがショックで、立ち直れないと言っていた。つまり、その方にとっては、そのミュージシャンが、心の支えであり、大きなよりどころだったのである。
実は、そういう方は多い。
「イエスキリストは信じていないが、〇〇さんは、自分にとっては神だ」と言っていた方もいた。
これらは、一種の人間への偶像崇拝になるのだろう。
しかし、その方が死んでしまったり、イメージが大きく崩れる時、虚像は崩れ落ちる。
また、お金もそうなのだろう。お金自体は、とても有益で、かつお金自体に罪はないのだが、お金を求める心に問題が発生する。
この世を生きる上で、お金は必要ではあるが、お金は万能ではない。
しかし、お金があれば、すべてが可能になるというような、幻想を抱かせる。
「頼りになるのは金だ」という、金を求める心が、偶像崇拝になる。
しかし、それほど頼りにはならない。
無くなるかもしれない。
また、金への慾は、際限がない。
百万円でも満足できず、たとえ億の金を持っていたにしても、もっと欲しくなるのだろう。
他の事が目に入らなくなる。
金を思う心は、人を幸福にはさせない。
そういう意味で、本当の神、私達の主、イエスキリストを信じていることは、何と健全なことか。
本当に頼りになる方を知っているということ、完全にゆだねられる方がいつも共におられるという事は、何と幸せなことか。
イエスを信じ、そしてシンプルな生活をするという事は、何と幸せなことか。
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