ヨブ記では、ヨブと3人の友との問答が、かなりのウエイトを占める。
何度かヨブ記を読んだとき、3名の友人が、それぞれの人生観や神感に基づくもので、適切なアドバイスになっていないという思いを持っていた。
従って、私の中では、友達に対する評価が低いものだったが、今回ヨブ記を読み直して、違った感想を持つようになった。
まずは、彼らへの認識が変わった要因は、次の聖句です。
2:11 ヨブの三人の友は、・・・ヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。
2:12 彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられないほどだった。彼らは声をあげて泣き、おのおの、自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。
2:13 こうして、彼らは彼とともに七日七夜、地にすわっていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みがあまりにもひどいのを見たからである。
彼らは、まず慰めようとして来る。そして、あまりのひどさに声をあげて泣く。
また、7昼夜も地にすわり、彼には一言も話しかけなかった。あまりに彼の痛みを見たから。じっと、寄りそう。
つまり、友としても、なかなかできない最大限のあわれみ、同情、寄りそいを示す。
人間は、そこまでの行動、心の底からのあわれみは、持てないのではないだろうか。
私には無理であろう。
その時点で、まずは、彼らへの敬意を表すべきだと思った。
批判的だった彼らへの見方を、反省した。
彼らは、立派な人達なのである。それを認める必要がある。
また、当然ながら、ヨブもさらに立派な人なのである。
しかし、立派な彼らが、話を始めていくうちに、思いがずれ始め、おかしくなってくる。
ヨブの信仰も少しずつ、ずれてくる。
また多弁になりすぎると、自己主張、自己を義とする傾向が出始めてくる。
なぜこうなってくるのか。
それは、私達にも言えることだが、神を中心に据えないで、人間の自己主張の言い合いになってしまうと、本質からずれていく。
それは、私達にも十分当てはまることで、注意しなければなるまい。
また神を中心に据えるのと、自分の神感を中心におくのは、違う。
自分の神感は、自分の考えになってしまう恐れがある。
このように、人との議論も、抑制しながら、節度をもって、誠意をもって、愛情をもって、行う必要があるのだろう。
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