ネヘミヤは、「12年間、私も私の親類も総督としての手当を受けなかった。」(5章14節)という。
また、18節で「・・・この民に重い労役がかかっていたので、総督としての手当を要求しなかった。」とある。
また、それと同じようなことを、パウロもいう。
パウロも、使徒の働きをしている中で、飲み食いする権利があるが、それを用いなかった。
1コリント9:12 もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。
二人とも、もらう権利があるが、それを用いない。
それが彼らの誇り、モチベーションになっていたのだろう。パウロもこの事を「自分の誇り」と語っている。
私達夫婦も常勤で毎日、働いているので、報酬をもらう権利はあるが、この事業を始めて約9年になるが、あえて一度ももらっていない。
この点については、彼ら偉人と共感するものがある。
「もらわない事」が、私達夫婦の誇り、そしてモチベーションになっている。
このような事を言ったりすると、いやな思いをいだく人も中にはいる。
あるいは、そういうことは、言わない方がいいという方もいる。
しかし、節目の時には、はっきりと言った方がいいのではと、私は思っている。
それが、私達の活動への思いの具体的な現われになっているからだ。
それは、ネヘミヤやパウロも同じだったであろう。
だから、この事が聖書にあえて書かれている。
ということは、「自分はもらっていない」と公言すること自体も、神様が支持しているのだろう。
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