イスラエルの王国の歴史は、サムエル記と列王記で語られている。
また、歴代誌は、同じ物語を語っている。
この二重叙述の意義について、「聖書ハンドブック」のヘンリー・H・ハーレイは、こう解説している。
「聖書全体が、普遍的な使用を意図した神の言葉と信じるなら、聖なる物語のこの部分が二度繰り返されているのは、土地を再配分するためエズラに直ちに必要だったという以外に神には何か目的があったと考えざるをえない。
反復は、重要さを意味する。少なくとも、聖書のこの部分を無視するなという警告である。私たちは列王記と歴代誌を無味乾燥な読み物と思うことがあるが、そこには神がご自身の民をどう扱われたという物語が含まれている。それを読むことで、聖書の最も尊い宝石の幾つかを見つけることができよう。」
私は、その最も尊い宝石の一つとして、人の神との関係を見る。
最近のブログで、何度か書いたように、王には、主の目にかなうことを行った王、そうでなかった王、途中で主に対して不振の罪を犯す王、最悪の王ながら悔い改め神に目を向ける王などいろいろである。
神との関係において、さまざまな王がおり、また王自身も一生においては、神への献身の程度が強まったり、弱まったり、さらには離反する。
自分自身に高ぶった王、主に目を向け主により頼んだ王、主から離れ高ぶり始めた王・・・。
しかしこのことは、私たち自身のことではないか。
この二重叙述は、そのことを私たちに教え警告しているのではないか。
神は、「あなたの一生、たえずあなたの心を見張り、注意せよ。たえず私に目をむけ、私を真ん中に置くことを忘れてはいけない。」と、特に、おっしゃりたいのだろう。
このブログを読んでいただき感謝いたします。
一日一回クリックの応援をいただくと、とても励まされ感謝です。