1歴代誌、今読んでいる。

17章に、こう書かれてある。

17:1 ダビデが自分の家に住んでいたとき、ダビデは預言者ナタンに言った。「ご覧のように、この私が杉材の家に住んでいるのに、主の契約の箱は天幕の下にあります。」

17:2 すると、ナタンはダビデに言った。「あなたの心にあることをみな行ないなさい。神があなたとともにおられるのですから。」

 

その後、結果として、ダビデが神の家を建てるのではないということ、しかし、その後立てられる王国は、とこしえまでも堅く立つ、と告げられる。

私が、今日お話したいには、ナタンが言ったことである。

神があなたとともにいるので、思うとおり行いなさい、である。

新約のキリストの御言葉を思い出す。

イエス様は、いつまでもともにいると、おっしゃってくださる。

感謝なことで、あのダビデと同じなのだ。

あるいは、ヨシュアとも同じだ。

ヨシュア記1章

1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 

そうなのだ。旧約の時代には、限られた人にしか、神はともにおられなかった。

しかし、新約の今、神があなたとともにおられる。

そうであるなら、何か怖れることがあるだろうか。

人間を怖れる必要はない。サターンを怖れる必要はない。

だから、ナタンは「あなたは神がともにおられる特別の人なのだから、思うどおり何でもしなさい。」とダビデに言う。

私もそのように思う。

良いと思ったことを、実行に移すべきだと思う。

もちろん、ヨシュアもいわれたように、聖書的な思いの中で行う必要があるのだが、思ったことは、できるだけ行動に移すべきだと考える。

多くの人が、躊躇していると思う。

現実的でないとか、リスクがあるとか、周りがどう思うか等で、結果として行動に至らないことが多いと思う。

私も、もちろん行動すべきかどうかは熟慮する。

その上では、やってみたいなと思ったことは、やったほうが良いと言うことである。

神の御心が、どちらなのかわからない時もである。

とにかく、やりたいことは始めてみる。

やりたいことは、神の御心である場合が多い。

また、御心でない場合は、神が途中で止めてくださるのだ。

この場合は、謙虚であるべきだ。

「何か、止められてるな」と明らかなサインがあったら、やめたり中断したほうが良いと思う。

どうしてもやってみたいと思って始めたとしても、固執すべきでなく、神からのサインに謙虚に聞き従うべきだろう。

良いと思うことは、行ってみる。

神から止められたら、やめる。

シンプルに考えてよいと思う。

 

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