ダビデには、良きにつけ、悪きにつけ、勉強させられる。

バテ・シェバを姦淫し、夫ウリヤを戦場で殺害させたダビデの行いは、主の御心をそこね、主が預言者ナタンをダビデに使わし、こう例え話をいう。

12:1…「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。

12:2 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、

12:3 貧しい人は、自分で買って来て育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。

12:4 あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」

12:5 すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。

・・・

12:7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。…

 

私が、興味を抱くのは、この話を聞いたダビデが、激しい怒りを燃やすところである。つまり、ダビデは、正常なあわれみ、正義感を持っている。

私もこの説話を聞くと、とんでもない男だ、男の風上にもおけない男、と思う。

しかし、ダビデは、神に「その男はお前だ」と言われる。

私も、その男に怒りを燃やすのは、正常な感覚だと思う。

私が、今回問いたいのは、正常なあわれみや正義感を、「私は持っている。大丈夫だ。」と思っていても、いざ実行となると、はなはだ怪しいのではないか、という事である。

恐るべき2面性。不可思議な私達の心。信仰に富んだダビデが、その実例である。

聖書を読んで、「そうだ。その通りだ。」と確信しても、そう常時行えるかとは、相当なギャップがある、と謙虚に考えるべきだろう。

こんな裏腹な私達の心、矛盾。それを、パウロもよく知っていたのだろう。次の聖句ににじみ出ている。

 

ローマ

7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。

7:22 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、

7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

 

ひたすら神に感謝し、ゆだねていくしかないであろう。「こうあるべき」と「実行」の間に、大きなギャップがあることを素直に認め、そしてその距離を縮める。それを行ってくださった、そしてこれからも指導してくださる神に感謝です。

 

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