シェアーする気持ちについて、お話したい。

私は、とても冷徹な心と優しい心の両面を心にもっていると思っているが、私が、おそらく小学校低学年の時に、父から言われたことが、心に残っている。

ある日、家にいた父から、小さなお菓子を「食べなさい。」ともらったことがあった。その時、私は「お兄ちゃんが帰ってきたら、分けて食べる。」と言った。一人で食べるのは悪い気がしたからである。すると父は私に「お前は、優しい男だ。」といった。今でもよく覚えている。

それを私は自分の良い面として思っている。

今の活動を始めた一つの理由も、あまりに格差社会が広がり、不安定な雇用形態等で、大変さが予想される時代の中で、私が、このままぬくぬくと老後生活を送るでは、後ろめたく申し訳ないと思った。少しでも困った人たちのお役に立ちたいという思いがあった。私の時間とお金の一部をシェアーしたいと思った。

もう一つの理由は、クリスチャンになったからであり、特に良きサマリア人の例えを読み、「そうだ。これだ。」と思ったからである。瀕死の困っている人に遭遇して、社会的地位が高かった祭司やレビ人が、立ち去る一方、社会的に蔑視されていたサマリア人が、「かわいそうに思い」、彼を助け支援する。イエスが、「あなたも行ってそうしなさい。」とおっしゃったことが、「ああ、神様は、そういうことを望んでおられるのだ。そうしよう。」と思ったからである。

この例えは、困っている状態をシェアーすると、とらえることもできる。誰でもが、困った状況に陥る。それを助けあう。それが「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」ということだと思っている。

これらの経緯は、本の中で、詳しく書かせていただきました。

 

さらに深刻な問題をいうと、聖書には、生きている間に神(イエス)を信じなかった人は、地獄に行くと書かれている。死ぬと救いの機会は失われる。生きている間が勝負なのだ。

聖書を信じている私は、これでは、多くの日本人は大変な事になるという危惧を抱いた。だから、私は、「死ぬまでに必ず聖書を読んでおく必要性」という、長ったらしい題名だが、切実な思いで、書いたのである。

本を書いた理由も次のように本の中に書いた。

そうであるなら、私は自分だけ良ければ、ということにならない為、同胞である多くの日本人に事前の厳重注意を喚起したいわけである。私が、この本を書いている理由は、そのことを伝えたい一念なのだ。その目的だけだ。」と。

本当にそう思っている。

考えてみると、私が幼時に自覚した「自分だけ良ければと思わない」考え方は、神から与えられたものだろう。しかも、これは、私固有のものではなく、人間みんなが、神からインプットされている良心というものだろう。神が、それを私たちに埋め込んでくれたことを感謝し、同じ同胞として、お互いシェアーし、救いの機会もシェアーしていきたいものです。

 

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