ダビデは、年を経てからある意味慢心から、相当に悪いこともするが、若いころの彼は、とても立派だった。

私が、特に印象に残る聖句は、次のところである。

1サムエル 30:21 ダビデが、疲れてダビデについて来ることができずにベソル川のほとりにとどまっていた二百人の者のところに来たとき、彼らはダビデと彼に従った者たちを迎えに出て来た。ダビデはこの人たちに近づいて彼らの安否を尋ねた。

30:22 そのとき、ダビデといっしょに行った者たちのうち、意地の悪い、よこしまな者たちがみな、口々に言った。「彼らはいっしょに行かなかったのだから、われわれが取り戻した分捕り物を、彼らに分けてやるわけにはいかない。ただ、めいめい自分の妻と子どもを連れて行くがよい。」

30:23 ダビデは言った。「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。

30:24 だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」

30:25 その日以来、ダビデはこれをイスラエルのおきてとし、定めとした。今日もそうである。

 

ダビデが、王になる前のこと、拠点としていたツイケラグに部下とともに帰ってみると、アマレク人に襲われ、女、子供もおとなもみな、連れ去られていた。そこで、600人の部下とともに、追跡するのだが、内200名が、ペソル川を渡れずとどまった。彼らに対する分け前についてである。

ある部下が、自分達ががんばって取り戻した分捕り物を、彼らに分けるわけにはいかない、という。これもある意味、理にかなっている。がんばったものに対する成功報酬で、現代の成果主義の考え方にも通ずるといえよう。

私は、キリストを知るまでは、この意見に賛同しただろう。あるいは、今でも、平等性と成果主義を併用した案を提示するかもしれない。例えば、戦った部下には、それ相応のボーナスを与える、例えば1.5倍とか・・・。

しかし、ダビデの視線は違う。これは、すべて、主がなさったことだ。主がお守りくださり、主が渡してくれたのだと・・・。

私達は、往々にして自分の努力や成果を過信して、神の支配を忘れることがある。また、力のあるもの、体力があるものが、弱いものを助け、補う役割が神から与えられているにも関わらず、それも忘れる。

そこを、ダビデは、平等に分け合うという。つまりシェアーする。

また一つ、聖書に教えられる。

 

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