嫉妬の感情は、とても人間的な感情である。

自分にはないものを、他人が有形無形に持っている場合、うらやましく思い、そして嫉妬する。

嫉妬の感情については、あまり説明を要しないほどに、みなさん、ご存じのとおりである。

聖書で、分かりやすく書かれているのは、サウル王のダビデに対する嫉妬であり、また、それに相対峙するものとして、ヨナタンのダビデに対する愛がある。

キリスト教では、嫉妬について、警告されている。

なぜ、問題視されるのかは、クリスチャンになって初めてわかる。つまり、神から与えられたもので、満足しない思い、自分自身への強い思いがあり、神からの離反につながるものだからなのだろう。

また、一方、クリスチャンならではの嫉妬もあるのかもしれない。それは、信仰的嫉妬なのだろう。サウル王は、それをダビデに抱いた。神が、ダビデを私よりも愛している、用いている。

そして、私が王なのに、彼の方が民から愛され尊敬されている。

本当に嫉妬の感情とは、執拗で困ったものだ。自己愛、自己中心に基づくものだろう。

 

一方、ヨナタンは、ダビデを自分と同じように愛する。素晴らしいヨナタン。普通であれば、ヨナタンこそ、サウル王の次の王であるはずであり、ヨナタンこそダビデに嫉妬する。そして、それを、父親のサウルがいさめ、励ますのが、サウルの役割なのだろう。

しかし、サウルは、ダビデを殺そうとするまでエスカレートする。嫉妬の感情とは、怖いものだ。サターンも神に嫉妬したのだろう。

しかし、これらもすべて、ダビデが成長するために、必要だった試練で、神のご計画なのだろう。そのサウルも神に支配されている。わざわいをもたらす主の霊が、サウルに臨んだと書かれているように。すべては、神に支配されている。

大きな試練を経てこそ、人間は成長するのだろう。そういう意味で、私達のこの世では、神からのテストを受けているのだろう。大きなテスト、小さなテスト、「ああ、今は、神からのテストだ。」と思って、 過ごすのが必要なのだろう。

嫉妬の感情も小さなうちに摘む訓練が必要。自分の分度を越えた、思い上がった心に注意。

 

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