1コリント1章18節にこう書かれてある。

1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。

1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

 

私は神への好奇心から、神を知りたいという目的から始めたが、聖書を読み進むうえで、知的に読むのではなく、虚心坦懐に素直に聖書に聞く、すると聖書が自分に語ってくるようになる。それ程までに、聖書は霊的な神の書かれた書物なのだ。

神のことは、人間の知恵によっては、分からない。そういう風に神が仕組んでいる。

「私は、能力があるから、神をも私の頭脳で知ることができた。」とは、決してならないようになっている。

一方、神を知るには、素直な幼子のような気持ちがありさえすればよいのだ。学問はいらない。字が読めなくてもかまわない。要は、神を信じさえすれば、救われるのだ。

だだ、それだけ。過去は、全く問われない。殺人者であっても、自分を反省し、イエスを神として信じる限り、救われる。

あまりに簡単すぎるので、「愚かだ。信じられない。子供だましだ。・・・」と言われるかもしれない。しかし、信者には、霊的な確信が伴う。「私はイエスを信じた。」と。

つまり誰もが、神を素直に求める心さえあれば、神はいずれ自らを開示なさる。

それでこそ、神の神たる所以でなかろうか。

一定の基準とか、勉強とか、修行とか、知識とか、お金とか、訓練が必要なのであれば、それは神とは言えない。人間の造った宗教なのだ。神の存在のかけらもそこにはなく、危険な、本当の神をかくそうとする善からぬものなのだろう。

 

このブログを読んでいただき感謝いたします。

一日一回クリックの応援をいただくと、とても励まされ感謝です。


にほんブログ村